2011/10/17

Fallingwater

■キユーピーハーフ 「おいしく、シンプルに。キユーピーハーフ」

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福山雅治が出てくるこのCMを見ていたら、激しく既視感を覚えた。僕はここに行ったことがある。

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これが僕の撮った写真。プリントをスキャンした。たぶん95年頃だと思う。わりと有名な建造物で、写真もこういう構図のものが多い。おそらくここに立てば誰でもこういう感じの写真が撮れるようになっているのだろう。でも僕には写真を撮ったときの記憶が全くない。

僕はこの頃、ミノルタの安い一眼レフを持っていたのだが、もっと手軽に持ち歩けるコンパクトカメラが欲しくて、近所のベストバイにいってキヤノンのオートボーイを200ドルぐらいで買ってきた。でも、この写真がそのどちらで撮られたものなのかも、記憶にない。

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いちど職場のボスが、お前を撮ってやろうと言って僕からそのオートボーイを取り上げたことがあった。そして張り切ってファインダーを覗いて、チアーズかなんか言いながらシャッターを押したのだけれど、うまくシャッターがきれなかった。まわりの人間が、カメラも扱えないのかとボスを冷やかしたので、ボスは顔を真っ赤にして「ジャパンのちゃちなカメラが悪い」と怒った。僕はそのとき、ボスはジャパンじゃないどこの国のカメラが良いと思っているのだろうか、と考えた。ジャパン以外のカメラなんて僕にはなかなか思い浮かばなかった。コダックとかだろうか。

ほら、つまらないことばかり思い出す。

建造物の名前は「Fallingwater」。カウフマンといういかにもデパートっぽい名前の富豪の邸宅として作られた。

なぜこのCMにFallingwaterなんだろう。キユーピーハーフとの関連性があるのだろうか。撮影秘話とかを見てみたけれど、なんの説明もない。それどころかFallingwaterの名前もなんのクレジットもない。福山雅治は日本のスタジオで撮影されたようだ。

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「キューピーハーフだって? カロリーが半分なのかい? そりゃあいいね、二倍使えるってわけだ」と、太っちょジェリーなら言ったことだろう。もちろん太っちょジェリーなんて友だちはいなかった。今作った。

「日帰りで行けるおすすめの場所かい? そうだなあ、こっから76号をぶっ飛ばして、ピッツバーグを抜けてさらに南東に1時間ぐらい走ると、フランク・ロイド・ライトっていう有名な建築家が設計した邸宅があるよ」

そんなふうに誰かにすすめられた気がする。今作られた記憶かもしれないけど。

「フランク・ロイド・ライトって誰だっけ? ふーん、日本の帝国ホテルを設計した人か。ははあ、なるほど」

日本の帝国ホテルを設計した人。納得できる一行ほどの説明が手に入れば、僕はもうその人のことをよく知っているも同然だった。僕がフランク・ロイド・ライトっていう名前を初めて知ったのはそのときだろうか。それとももっと前から聞いたことがあっただろうか。判然としない。どうだっていいことだけど。

まあそれで、この建物の何がすごかったというのだろう。しゃれたデザインであったことぐらいは記憶に残っているものの、何だかさっぱりだ。ネットで調べてみると(便利な時代になったものだ)、日本語では落水荘というそうだ。それでカンチレバー構造という滝の上にせり出しているところがすごいらしい。

■ Fallingwater | Home

ネットは便利だ。どこにでも行ける。当時の僕は職場でメールアカウントはもらってたけど、ウェブを見る権限はなかった。そもそもウェブサイトというものの存在意義がまだよく分かっておらず、まったく関心もなかった。僕は日本にいる仲間たちとは英語でメールのやりとりをしていたけど、だんだん英語で考えるのが面倒になってきて、そのうちローマ字でメールを出すようになった。でもそれも限界にきて日本語に対する渇望が果てしなくなり、毎日相手を変えては便箋10枚ぐらいの手紙をBICのボールペンで書いていたような気がする。

たぶんその頃、僕のすぐ近くで、山中伸弥先生や村上春樹先生は、今ある姿に向かって確実に奮闘していたはずなんだ。いったい僕は何をしていたのだろう。僕の記憶は何もかもがあやふやだ。僕がこの国で学んだ成果といえば、せいぜいメジャーリーグのチーム名と都市名を結びつけることができるようになったぐらいだ。


2011/10/07

Toll-like Haruki

僕はなんとなく、ノーベル賞、今年は誰か日本人が受賞するだろうという淡い期待をいだいていた(その根拠はお分かりですよね)。淡い期待というか、どことなくそれが前提のようにさえ思い込んでいた。きっと山中先生がもらうんだろうな、とか。
ところが医学生理学賞は山中先生じゃなかった。
え、どうして?
僕はちょっと混乱した。
そうすると、ひょっとしてハルキか?
そういう予感が頭をよぎったのだった。

ハルキがノーベル賞って、ハルキファンはどうなんだろう。僕は自分がハルキファンかどうかも分からないので分からない。ただ実際に受賞ということになっちゃうと、記者会見とか授賞式とか、日本のマスコミの前で思いっきり正体を晒すことになるわけで、ハルキがそんなことになっちゃっていいのか? という、自分でもよく分からない不安で胸がどきどきした。そしてさらにその後のことも想像した。ざっと数作に目を通しただけで訳知り顔になってるキャスターの御説を聞くはめになるんだろうな、とか。表向きはお祭り騒ぎだけれど、ネットでは賛否両論の喧騒が渦巻くことになるんだろうな、とか。やれやれ。

無駄な想像と心配。結局ノーベル文学賞はトランストロンメルだった。もともとトランストロンメルかアドニスだといわれていたから、さして驚きはなかった。どちらにせよ、ふたりとも80歳越えだ。ノーベル賞も世界を相手にしなければならないからなあ。そうすると対象者も自ずと増えてくる。その結果文学賞も、年功序列でいくとなると受賞すべき人がつまっちゃっているんだなあ、とか思った。正直にいうと、とてもほっとしている。これで静かな環境で、ハルキの未読作を読み続けることができるという安心感だ。といっても、未読なのはエッセイとか翻訳ものしか残っていないのだけど。あれ、ひょっとして僕はハルキファンなのだろうか。

静寂にひとまず安心した僕だけれども、今度は逆に、まるでジョブスが受賞したみたいな日本での盛り下がりぶりにはちょっと寂しくなったりもする。山中先生を後回しにした医学生理学賞も、受賞者の直前の死去ばかりが報道され、研究内容の方はさっぱり注目されなかった。自然免疫…ですか…。……。なにそれ?と問われることすらない。寂しー。繰り上がりで日本人が受賞していれば、また状況は違ったのだろうけれど。

Toll様受容体ってなんだっけ。手元にあった敗血症に関する本の巻末の用語集をみた。

Toll様受容体(Toll-like receptor: TLR) ――Toll(ショウジョウバエの初期発生において形態形成に関わる受容体)に似た構造を持つ膜貫通型受容体。LPS(lipopolysaccharide)やPGN(peptidoglycan)の認識に関わると考えられている。

ふーん、なんか今ひとつ正確さに欠ける記述のような気がする。ほんとに理解して書いているんじゃなくて、借りてきた言葉をただつなげているみたいな未熟さ。だって、そりゃそうじゃん。著者は僕だもの。10年近く前の本だ。僕のことだから、きっとウィキペディアとかから適当にかき集めて書いたに違いない。ウィキペディアあったかな、当時。

なんだか遠い昔のような気がする。Toll様受容体が今やっと受賞するんだったら、iPS細胞なんかまだまだ先のことなんじゃねーか、っていう気がした。でもそれでいいんじゃねーか。だって、若いうちにへたにノーベル賞なんかもらっちまったら、なんか大変そうだもの。それこそ死ぬ間際に、墓への土産としてもらうのが理想なんじゃねーべか。ハルキもマイペースであと3つぐらい長編書いてさ、そんで死ぬ間際にもらうのが一番いいよ。そうだそうだ、それがいいよ。


2011/09/28

コトラ15:レフラー球を食べた犬

突然ですがスミルノフ教授です。そうです、本日は休養中であるはずのブログ主が自ら書いています。ブログ主が自ら書くなんて当たり前なのに、それをわざわざ明記するのは何だか照れくさいですね。でもわざわざ明記せねばならんのです。犬の代筆を遂に終了させての完全復帰ということであれば、そこまでしつこく明記する必要もないのですが、犬にはまだいくらか書き残したことがあるようなので、私はもうしばらく復帰を思いとどまって犬に書かせる余地を与えようと思います。ただし、ここでいったんブログ主である私が自らの言葉を差し挟む必要性が出てきました。すなわち、これはブログ主の復帰というよりは、代筆である犬に代わって書くようなもの、言わば代筆の代筆なのです。だから私が筆者であるにもかかわらず、題名は引き続きコトラの連番になっています。

ではどうして代筆をいったん中断してまでわざわざ私自身が登場するのか。それは、前回のエントリーで、犬が嘘をついた可能性がある、からです。そこのところを正しておかなければなりません。

では前回のエントリーで使用された写真をもう一度ごらんください。

コトラと英和和英辞書

まるで犬が辞書を読んで理解しているかのように見えます。しかし、常識的に考えて、いったい犬が文字を理解するでしょうか。そんな分かりきったことを今さらのように持ち出すのは、当ブログの存在意義に関わる問題かもしれません。確かに当ブログは設立当初からフィクションじみた面を有しています。しかし、ファンタジーやSFをやっているつもりはないので、ある程度のリアリティというものは保持されなければならないと私は考えています。百歩譲って、小人が出てきたり、月が二つになったりするぐらいはよしとしましょう。しかし、犬が辞書を調べるなどというのは、(自分でやっておきながら)やはり自分でも受け入れ難い設定であったと考え直し、おおいに反省しているのです。

そこで私は犬を呼びつけ、犬がほんとうにその辞書を調べて意味を理解したのかどうか問いただすことにしました。

「おい、犬。ここに座れ」、私は後ろ足を突っ張って抵抗する犬の首輪に指を掛けて引っ張り、無理やり私のそばに座らせた。

「痛いなあ、そんなに強く首輪を引っ張らないでくださいよ。なんども言うけど暴力で犬はしつけられないんだってば」、と言っているような表情を犬は浮かべた。

「今日はお前としつけについて議論するつもりはないんだ。そんな時間もない。話を急ごう」と私は言いながら例の辞書を犬の鼻先に突きつけた。

「お前はこの辞書を調べてbow-wowだとかruff-ruffだとかを確認したことになっている。お前は本当にこの英文字を認知して理解したのか? 私には到底信じられん」と私が言うと、

犬は私からも辞書からも目を背けながら、「もちろん理解できましたよ。そりゃあ紙とインクの臭いが強烈でその嗅覚による信号が僕の視覚情報を凌駕しそうになったことは確かです。けれども僕はちゃんとそれが辞書で、書かれているのが英文字だってことぐらいは分かりましたよ」とでも言いたげな顔をした。

私はさらに犬の首輪を引っ張って、犬の鼻先を私の眉間にこすりつけながら言った。

「いや、お前は嘘をついている。ここに書かれているのは本当は文字なんかじゃないし、だいたいこれは辞書ですらないかもしれないんだ」

犬は私の言った意味が理解できない様子だった。あるいは私の言うことには最初から無関心を決め込んでいたのかもしれない。それともこの犬はそもそも私の言語を理解できないのかもしれなかった。そして犬は私の老人臭を嗅がなくてもすむよう自分の鼻先をなるべく私の眉間から離そうと上体を反らせた。もちろんそれは無駄な努力だった。でも犬にはそれが無駄かどうかなんて分かりゃしないのだ。

「お前はジャストロー錯視というのを聞いたことがあるか」と私は犬に無駄な質問をした。

私は「お前が知っているはずもないので教えてやろう。教えてやったところでお前が理解できるとは思えんがな」と続け、皿にのせた二切れのバウムクーヘンを用意した。

錯視バームクーヘン

「ここに二切れのバウムクーヘンがある。上のバウムクーヘンと下のバウムクーヘン、どちらか大きい方をお前にやろう。さて、どちらが大きいかお前に分かるか?」

バウムクーヘンを見る犬の瞳孔が、まるでそこから犬の脳味噌が透けて見えるんじゃないかと思えるぐらい大きく開いた。

「人間には下のバウムクーヘンの方が大きく見えるんだが……、ああっ!」

私の説明が終わらないうちに犬はものすごい力で躰を捻りながら暴れだした。袋に詰められた得体のしれない生物が命がけで脱出しようとするような激しい暴れ方だった。首輪に引っ掛けた私の指にかかる犬の体重が、いつもの二倍も三倍もあるような気がした。犬は釣り上げられた巨大な魚のようにのたうちまわり続けた。私は犬の日常的な醜さを超えたその姿に背筋が凍るほどの嫌悪感と恐怖を感じ、つい犬の首輪から指をはなしてしまった。

すると犬は猛獣のような鼻息とともに皿の上のバウムクーヘンをあっという間に二切れともたいらげてしまった。バウムクーヘンが消失したあとも、バウムクーヘンの実体以外の何ものかがまだそこに残されているかのように、大量のヨダレを流しながら皿を激しく舐め続ける犬を、私は呆然として見つめていた。

しばらくすると犬は頭を上げ、私の方へ視線を向けると、突然私がそこに現れたかのように驚いて、怯えるように二三歩後退した。その光景を何も知らない他人が見たら、私がいつも犬に暴力を振るっていると誤解するんじゃないかと思えた。犬から離れた皿はたった今買ってきたと見間違うほど磨き上げられて光沢を帯びていた。

犬の瞳孔は元の大きさまで縮小していたが、大きく見開かれた瞳のまわりには涙が潤んで、自分のしてしまったことを許してほしいと哀願しているようにも見えたが、単に私を畏れているだけかもしれなかった。あるいは、恐る恐るバウムクーヘンのおかわりを要求していたのかもしれない。いずれにしろ私はいつまで経ってもこの犬の考えることがよく分からないのだということを思い知った。

「大きい方をお前にやると言ったのに二つとも食べたということは、お前にはどちらが大きいのか分からなかったということか?」

私は犬に動揺を悟られぬよう努めて平静を装った。

「それともお前には二つとも同じ大きさに見えたんだろうか? さっきも言ったように人間には下のバウムクーヘンの方が大きく見える。だが実際には二つは同じ大きさだったんだ。だから、同じ大きさに見えたので二つとも食べたというのなら、お前は正しい。その一方で、人間に生じる錯視という現象が、やっぱりお前には生じ得ないんだということも、同時に証明されることになるな」

私はすでに冷静さを取り戻していた。そのおかげで、自分の言っていることが単なるこじつけに過ぎないということも自覚できるようになっていた。

私は一冊の本を取り出し、その一節を朗読した。

この紙面に描かれているのは本来、全く文字などというものではなく、ひたすらのたくって繁茂した得体の知れぬ基盤図形に他ならない。これを文字と見做しているのはあなたであって、人間以外の認知系には、同様の効果は引き起こされない。(中略)入り組みまくった紋様を目撃したあなたの認知系は、まず宙に浮かぶレフラー球を錯覚する。あなたがそうと気づく前に、レフラー球はもとの紋様をレンズを通したかのように変形して、まるで文字のようなものとして展開する。それがあなたが見ているこの文章に現在起こっている現象である。――円城塔 Boy’s Surfaceより(Boy’s Surface収録)

「つまり、お前が文字だと言い張ったその黒い紋様は、実際には文字ではなくて紋様に過ぎない。それは人間が見るとレフラー球を錯視するように設計された基盤図形なんだ。そしてその錯視したレフラー球を通して基盤図形を見ると、人間はその基盤図形を文字に錯視する。すなわち錯視されたレフラー球が紋様を文字に変換するといえる。その結果、人間はただの黒い紋様を文字だと認識する仕組みになっているわけだ。だから錯視の生じない、人間じゃないお前が見たところで、お前にはレフラー球を錯視することはできないし、ましてや黒い紋様が文字に見えたりするわけがないんだよ。

付け加えるならば事態はもっと複雑だ。ただ単にひとつのレフラー球が黒い紋様を文字に変換しているってわけじゃない。レフラー球によって変換された紋様が新たなレフラー球を幻視させる紋様である場合もあるからだ。理論的にはこの現象は無限に続き得る。つまり私たち人間の目とこの辞書の間には無数のレフラー球が存在し、その複雑な相互作用による変換の結果として文字を認識しているというわけだ。

いいかい、レフラー球の効果はひょっとすると文字だけに関わるってわけじゃないかもしれないよ。この印刷されているかのように見える紙、あるいは本という体裁そのものも幻視なのかもしれない。だとすればお前にはこれが辞書だってことすら分からないはずだ」

私はレフラー球について大いに語る自分自身に陶酔していたが、ここで一瞬、犬がこれを辞書だと分からないのはなにもレフラー球の存在の有無に関係ないのじゃないか、という考えが私の頭をよぎった。しかし、私の口は私の意志を無視してしゃべり続けた。

「さらにやっかいなことにはひとつのレフラー球が複数のレフラー球を幻視させる場合もあるし、逆に複数のレフラー球がひとつのレフラー球を幻視させる場合もある。すなわちレフラー球による変換は枝分かれする上に再び合流することもある。その結果……」

「その結果?」と、犬は首をかしげたように見えた。

「いったい出処がどこで、そして行き着く先がどこなのか分からない変換が、ただ無意味にぐるぐる循環しているレフラー球の連鎖が存在するかもしれない。いや、意味はあるのかもしれないよ。だって我々の脳神経のことを考えてごらんよ。我々は視覚などの情報をインプットし、それを神経細胞が伝え、そしてまた神経細胞を介したアウトプットによって話したり手足を動かしたりしている。だけど実際には我々の脳細胞の99%はインプットやアウトプットに直接関係せず、脳の中だけでただ情報をぐるぐるループさせているんだ」

そのとき奇跡が起きた。

レフラー球出現

犬に幻視できるはずのないレフラー球が(もちろん人間においてもレフラー球はそれをそれと認識できる幻視ではないのだが)、たったひとつではあるけれども、今、犬に判然と見えたのである。そしてそれは私にも見えた。私はレフラー球を実際に視認した世界で二人目の人間ということになり(もちろん一人目はレフラー球の発見者であるレフラーである)、犬は世界で初めてレフラー球を視認した犬になった。

初めて見るレフラー球を前に放心状態となった私とは対照的に、犬は非常に冷静だった。おもむろに辞書に近づくと、現れたレフラー球に鼻先をつけて臭いを嗅ぎ始めたのである。

レフラー球を食べる犬

そうして犬はしばらくレフラー球の臭いを嗅いでいたが、やがてそれを食べられるとものと判断したのだろう、ぱくりと口の中に入れて、たいして味わいもせずにそれを飲み込んでしまった。

レフラー球を食べ終わった犬

もはや辞書の上にレフラー球は見えず、ただ犬のヨダレで汚された紙面が見えるだけだった。私は一個のレフラー球が犬によって破壊されたために高次元レフラー球構造の全体に歪が生じて、その結果として犬のヨダレによる汚れを幻視しているのではないかと考えた。きっと違うのだろうけれども、そのとき私はそう考えたかった。

レフラー球を食べ終えた犬は何かを言いたげな瞳で私を見つめていた。レフラー球のおかわりを哀願しているのだろうか。いや、きっと犬の心にはなんら意味はなく、それはただの紋様であるに違いない。そしてこの犬の眼球がレフラー球なのだ、という考えが私の頭に湧いた。

私のレフラー球や脳神経に対する理解が稚拙で不十分であるところは前もってお詫びしますのでどうかご容赦ください。と、私はチワワのような潤んだ瞳であらかじめ哀願するのだった。


2011/09/15

コトラ14:犬は「◯◯◯」と吠える

先日家人の会話を聞いていたら、日本では犬は「わんわん」と吠えるそうである。いったいどこをどう変換したら私の吠え声が「わんわん」になるのか理解に苦しんだが、江戸時代までは「びょうびょう」というのが一般的だったと聞いて(参照)、やれやれいいかげんなものだと思った。

一方、アメリカ人はどうか。多くの日本人は、アメリカでは犬は「bow-wow」と吠えるものだと思っているようだが、bow-wowはとても古めかしい表現である。アメリカでbow-wowなんて使ったら、お前は明治生まれか!と突っ込まれると思うのでご注意いただきたい。いや、アメリカだから明治生まれはないな。アメリカ人ならなんていうだろう。お前は恐竜(dinosaur)か!かな。私はアメリカ人じゃないから分からないや。ああ、その前に人ですらなかった。

では現在のアメリカでは何が一般的なのかというと、私の友人であるアメリカ犬の亡霊約100匹に聞いてみたら、英語では「ruff-ruff」が一般的ではないかということであった。あえてカタカタにしてみるけど、「アメリカでは犬はラフラフと吠える」、これ豆知識な。

英語での表現は他にもないのかなと、私は初めて英和和英辞書なるものを調べてみたのだけれど、bow-wowとruff-ruffの他には、bark-bark、woof-woof、arf-arfなんてのがあった。日本語はオノマトペの言語とかいわれてるけど、こと犬の吠え方に関しては英語のほうが頑張ってるじゃんとか思うのは私の勘違いだろうか。

コトラと英和和英辞書
英和和英辞書を紐解く著者。

日本人にせよアメリカ人にせよ、どうやら人間はその言語圏の音素にしばられてしまっているようだ。かわいそうに。もっと心を開放して犬語に寄り添ってくれる人間はいないものかと教授に話したら、教授は人生に必要なことはだいたい中崎タツヤのマンガにかいてあるといって、これを教えてくれた。

あ゛うる
問題サラリーMAN Vol.4より

あ゛うる」、やるじゃん、中崎タツヤ。

追記:

さて今回は少し趣向を変えて、「私の言語ではない何かを人間の訳者が言語化している」という設定を大半の読者はそろそろ忘れてくれているのではないかという期待のもとに、あえてその設定を無視して書いた。収拾がつかなくなりついに初期設定放棄かよ、との批判はもとより覚悟の上である。だが振り返ってみればその初期設定はずいぶん前から、ひょっとすると初回からすでに崩壊していたのかもしれない。あるいはこう考えてくれないだろうか。人間の読者を想定して書いているうちに私は人間の言語や思考過程に感化され別世界に迷いこんでしまったのだと。

別世界。なんて都合のよい言葉だ。しかし人間だって、犬が言語も理性も持ち合わせていないことを頭で理解しながら、日常ではまるで犬が人間であるかのように家族の一員として扱ったりする。すなわち人間の頭の中と日常は別世界ではないのか? 別世界を普段から都合良く使い分けているのは人間のほうではないのか?

名作の誉れ高い「こゝろ」の序盤では「何処かで見た事のある顔の」先生が登場するが、結局何処で見たのか主人公は最後まで思い出せない。冒頭では「よそよそしい頭文字などはとても使う気になれない」と宣言しておきながら、後半はイニシャルKが大活躍である。大作家の名作であるがゆえに、この矛盾は大いなる謎として研究対象にまでなっているのだが、私は新聞連載ゆえに単に最初に書いたことを失念したんじゃないのかと思う。(訳者註:著者は犬なので漱石が入念な準備をしてから連載にとりかかったことを知らないのも無理はない。)

そこで読者にお願いであるが、私のこの連載における初期設定の破綻も、大いなる謎として崇めたてまつり、研究対象にでもしていただければ幸いである。矛盾や混乱、つじつまの合わない箇所は、私のミスなんかではなく、それこそ私が意図して残した「謎」ということにしていただき、おのおの解釈に勤しんでいただきたいと願うのである。


2011/09/13

コトラ13:私の自由

私は自由である。

私の一日は台所のチェックから始まる。調理のあと母親が生ゴミをうっかり床に置き忘れていることがあるからだ。しかし台所を歩くときには、誰にも咎められないように全く音をたてない必要がある。

その後はリビングで食卓テーブルの周りを巡回し、どの程度ならばそこに飛び移れるか、毎日のようにその距離感を測定している。うっかり椅子が引かれたままならば、私はその椅子から食卓テーブルの上まで容易に飛び移ることができる。小さな台やソファなどがいつになく食卓テーブルに近づけられていることもあり、場合によってはそこから飛び移ることも可能だ。

私が隙あらば食卓テーブルの上を狙っていることに、もちろん家人たちは気づいている。だから奴らは席を立つときに、必ず椅子を元に戻すよう気をつけている。最近は嫌がらせのように、わざと椅子を180度回転させて背もたれ側を食卓テーブルに向けてから席を立つものもいる。うっかり椅子が引かれたままになっていたとしても、人目があればその場で取り押さえられて終わりである。だから人目は無いに越したことはない。

そうすると都合のよいチャンスはなかなか無さそうにも思えるが、実はたまにある。それは誰か客人が来ており、おもてなしを受けた客人が帰る瞬間である。それが最大のチャンスである。客人は椅子を戻すという習慣が身についていないから、引いたまま帰ることが多い。それに家人たちは客人を見送りに全員玄関に出る。その結果、リビングルームはもぬけの殻、飛び移るための椅子は引かれたまま、しかも食卓テーブルの上は客人が残したご馳走でいっぱいである。これ以上望めない条件が揃うのである。

だから私は客人が来るとずっと吠えている。特に客人が帰るときに最も激しく吠えまくる。家人たちは、人の出入りが嫌いなんだろうとか、客人が帰るのが寂しいのだろうなどと解釈しているようだが、本当はそうじゃない。最大のチャンス到来に興奮を抑えきれなくなって吠えているのだ。

いや、違うな。そんな複雑な理由じゃない。ただ人の出入りにつられて反射的に吠えているだけだ。あまり意味はない。

やがて自由は奪われる。やっぱり私は自由ではないのだろうか。
非自由? 不自由?
だけど、台所やリビングを歩き回れる以上の自由を私は知らない。
私にとって自由とは、台所とリビングと食卓テーブルの上、それですべてだ。
それが私の世界だということだ。
だから、私にはこの家を飛び出すなどということを思いつきもしない。
もし飛び出したとしても、それが自由だとは思えない。
檻に囲まれた檻を抜け出したところで、どれほどの意味があるだろう。

コトラのお宅拝見1
音もなくこっそりと台所をチェックする著者。突然写真を撮られて驚き、呆然としている。
コトラのお宅拝見2
小さなテーブルの上から食卓をうかがう著者。
コトラのお宅拝見3
椅子の上をゲットし、食卓の上のかりんとうを確認したものの、背もたれが邪魔でどうすることもできない著者。
コトラのお宅拝見4
いい気になっている、と叱られ、ついに餌やり女にとっつかまってしまい、浮かない顔をしている著者。
コトラのお宅拝見5
それでも執念深い著者は、まるでろくろ首のように首を伸ばし頭を回転させ、食卓テーブルの上をぎりぎりまでチェックする。以上が私の自由のすべてだ。

2011/09/03

コトラ12:格言、名言、諺について

私は人間がよく引用する格言や名言、諺の類が理解できない。 「私は正直者ですと自分でいう者は、決して正直者ではない(オー・ヘンリー)」なんて聞くと、私は人間ですと自分でいう動物は人間ではないのだろうか、などと混乱してしまう。

私は一見おとなしそうなので、公園や獣医の待合室などにいると、犬好きの知らない人がよってきて「まあ、かわいい」といいながら私を撫でようとする。そのとき、私は猛犬のような唸り声とともに牙を剥く。場合によっては噛み付くことも辞さない。私にとって知らない奴は全員敵なのだ。

だから、私は「見かけによらない」とよくいわれる。

人間の世界には「人は見掛けに依らぬもの」という諺があるらしい。だが実際のところ、人は見かけによることの方が多いのではないだろうか。たまに人の意外な一面を見て驚いたりすることがあるものだから、それが「たまに」であるがゆえに、そして「意外」であるがゆえにこそ、「人は見掛けに依らぬもの」という言葉に人間は共感するのだろう。

「事実は小説より奇なり(バイロン)」という格言も同じことである。事実がいつもいつも小説より奇であったならば、人は小説など読まぬであろう。「たまに」小説よりも奇怪で「意外」な出来事に驚かされるものだから、その格言に共感するのだ。

逆にいえば、日常的で、ごく当たり前なことを言っても、ちっとも人の心に響かない。「人間は呼吸をしている」なんて格言にも名言にもならない。だけど、私たちに大事なのは日常的で当たり前のことのほうだ。

すなわち、格言、名言、諺なんてものは大概、「たまに起きる意外なこと」について述べているだけであって、大多数の普通の人間の普通の日常生活にはさっぱり役立たないと思われる。よく知らないが、ライフハックとやらもこの類ではなかろうか。「人を見たら泥棒と思え」といわれ、いっときも人を疑うことをやめないでいる人間などどれほどいよう。

連載も長くなり、私を嫌ってずいぶん当ブログの読者も減ったかと思う。しかし、「人食い犬にも合い口」というがごとく、数名の読者は熱心に読んでくれているようである。私はこのたった数名の読者のためだけにもう少し続ける。

名言を考える私
名言を考える私。オンマウスで浮かぶはず。

2011/08/09

コトラ9:従属主体化

権力は自動的なものになり、権力は没個人化する。誰が権力を行使するかは重大ではない。 (ミシェル・フーコー 監獄の誕生)

私はたえず監視され、規律訓練(ディシプリン)によってトイレはここだというような社会的な規範を身につけさせられる。今では言われなくても決められたトイレで用をたすが、これは換言すれば自分で自分を監視するようになったということである。友人のミシェル・ワンコーは、そんなのは本質的な主体化などではなく、監視者である人間の教えを自発的に内面化し従属する存在になっただけなのだという。

この監視権力の自動化、そして個々の存在の標準化システムは、人間の世界においても、刑務所、学校、病院、会社などといった近代社会における主な装置の中で、すでに有効に稼働しているらしい。

日本の内田という先生は、右手と左足、左手と右足を同時に出す現在の歩行法は明治以降の学校教育による「身体の標準化」の一例だといっている(参考)。また、「体育座り」にいたっては、子どもをもっとも効率よく管理できるよう考え出された身体統御姿勢なんだと怒っている(参考)。

私はワンコーの話を聞いてから、トイレのしつけに関しては既に身についてしまったことだし、うまくすれば褒美の餌がもらえるので妥協することにしたが、「おすわり」と「おて」には絶対に従わないぞと固く誓った。犬といえば「おすわり」と「おて」、というのは人間にありがちな実に短絡的で思考停止的な固定観念だ。私は固定観念が大嫌いである。

「おすわり」は犬にとって自然な姿勢だとよく聞くが、私は肩と首が凝ってしょうがないので、ほんとうにそうなのだろうかと最近疑問に感じている。私にとって一番楽な姿勢というのは、横向き寝であって、「おすわり」なんていうのは先祖代々遠吠えするときの姿勢なんじゃないだろうかと思う。しかも、ふわふわの布団や毛布の上でならまだしも、冷たいフローリングに尻をつけるなんて考えただけでもぞっとする。

だから私は餌やり女がいくら「おすわり」を教えようとしても、全く聞く耳を持たなかった。ところがその状況を一変させたのは餌やり女の兄だった。餌やり女の兄はアメリカでドッグトレーナーをしていたことがあり、実に巧妙なやり方で私に「おすわり」を覚えさせてしまった。ふせの状態から尻を押さえつつ、ちょうど「おすわり」をすると鼻先がとどく位置にドッグフードを握り、何度も「おすわり、おすわり」と言った。うまくできるとドッグフードが口に入り、餌やり女の兄は「グッドボーイ」と言って私を撫でた。撫でられても嬉しくともなんともなかったが、ドッグフードが口に入るのは悪くはなかった。訓練の時間は、私が訓練そのものを嫌いにならないような調度良い時間に設定されていた。すなわち長過ぎず、かといってすぐに忘れてしまうほど短くはなかった。

餌やり女の兄は、たしかにこんなに覚えの悪い犬は初めてだと言った。覚えが悪いというよりも、覚えてやるものかと頑なになっているような気がすると言った。たしかにそのとおりだったのである。その点においてはさすがにドッグトレーナーらしい読みといえる。ところが、その後の行為は全くドッグトレーナーらしからぬものだった。ほんとうはこんな手は使いたくないのだがと言いながら、私に痛い思いをさせたり、私の躰の上に覆いかぶさり、順位が上なのはどっちなんだと脅迫したりした。だから私は餌やり女の兄が大嫌いになった。順位も何もあったものではない。犬なら誰しも順位という概念を持っていると、人間は大きな勘違いをしているようである。結局、私は餌やり女の兄の前では見事な「おすわり」をするようになり、得意の吠えることさえも自粛するようになった。だがそれは餌やり女の兄が単に恐ろしいからであって、けっしてあいつの順位が上だとか、ましてやあいつを尊敬しているからではない。むしろ軽蔑している。

私の必死の抵抗も虚しく、私は「おすわり」に続いて「おて」も覚えてしまった。それは餌やり女の兄とは関係のないことがきっかけであった。モネがやってきたからである。モネは人間から見て実に標準的な犬らしい犬である。ほめられただけで大喜びするし、「おて」もすぐに覚えた。「おて」と言われる前に既に前足を出すほどである。モネは超自発的従属主体なのである。だから私の何倍も人間に可愛がられる。「おて」をするたびに旨そうなものをたくさんもらっていやがる。残念ながら私には、他の犬が旨そうなものをもらっているのに黙って我慢しているほどの根性はなかった。だから私もつられて渋々「おて」をするようになったのである。

ここは素直に敗北を認めることとしよう。私は従属主体化のシステム、身体の標準化システムの前に敗れたのである。しかし、全面的に、無意識に、システムに組み込まれたわけではないことだけは明記しておきたい。その証しとして、私は「おて」をするときには必ず鼻に皺を寄せ、歯をむき出しにし、威嚇の唸り声を出す。これがかつてのレジスタンスとしての私のなごりなのである。

著者近影:「おて」と同時に鼻に皺を寄せ、歯をむき出しにして威嚇の唸り声を出す私
著者近影:「おて」と同時に鼻に皺を寄せ、歯をむき出しにして威嚇の唸り声を出す私

2011/08/07

コトラ8:生の権力

人間は言語だの論理だのというものを手に入れた上に必ず死が訪れることを知ったのだから、死に方というものをもう少し具体的に考えたらどうなの?と私は云ったのだ。それなのに、自ら死に向かうなんてもってのほか、なんて脊髄反射的に云うのは思考停止であって、それこそ犬のレベルだっていうことに、まだ気づかないかい? 短絡的だよ。自分の思いついたことはまず無条件で正しいと思ってしまい、全く自分を疑わない。自分の思いつきや意見なんてものは、よくよく思い出してみればそのほとんどが誰かの受け売りに過ぎないし、時や場所が変わればその是非も変わる。

まあいいだろう。「吾輩は猫である」の主題は自殺肯定論だ、「銀河鉄道の夜」の主題は他人の犠牲になって死ぬことの美しさだ、とか書くと少なからず文句がくる。もちろんそれは私のひとつの解釈に過ぎない。存在するのは解釈だけなのである(私はニャーチェはあまり好きではないが、この点については賛同する)。もちろん作者がこれらの小説を書くにあたって、さーて「死」についてでも書いてみようかしらん、なーんてかしこまったとは思えない。だって、どちらの作者も自殺したでもなく他人の犠牲になったでもなく、ちゃんと病気で死んでいる。いいかい、小説に主題なんか最初からないのだよ。

文芸にあるのは表現だけだ、と云ったのは龍ちゃんだった(昔の)。今私が書いている文章なんか、主題はおろか、何の表現ですらもない。ただのインクのしみ、いや失礼、ただのドットの集まりだよ。それが、何か文字に見えたり、文章に見えたり、文章の意味が見えたり、ましてやそこに深淵なテーマを感じたとしたら、それは全くもって君の方に責任がある。君の問題なんだ。私には関係ない。

まだ分からないかなあ。もう10年以上前からナラティブなんだよ。ナラターと作者は違うんだ。

前置きが長くなったが、本題に移ろう。前回は健康至上主義について書いたが、最近、ハーモニーという小説が亜米利加でたいへん評判になったそうだ。私は常日頃、友人のミシェル・ワンコーから、「生の権力」という話をよく聞いていた。これは近代社会における権力というものは、支配者とか独裁者といったような分かりやすい形ではなく、社会システムそのものが権力になるという話である。そしてワンコーがいうには、その管理システムは生の向上、すなわち健康を目指すのだという。

ハーモニーは全くこの「生の権力」を下敷きにしており(であるからその説明がやや冗長ではあるものの)、その生の向上を目指すシステムが極端に具現化された未来が舞台だ。徹底的な健康管理で「もはや死因は事故死と老衰しかない」という設定だが、これだけ健康管理システムが発達していればたとえそれが「老衰」にみえても、何かの病気としてその死因が突き止められるはずである。「老衰」は今ほど診断が発達していないか、あるいは診断する必要のない風潮の時代における漠然とした概念であり、すでに「老衰」の死語化は始まっている。ただ、細かいことは看過して、単に健康至上主義批判小説として読めば痛快な作品ではある。長編としてはこれが遺作となったようだが、作者はまだまだ書きたいアイデアがあったことであろう。目前に迫る死と直面していた作者のことを考えると、単に健康至上主義批判として読んでいいのかどうか躊躇はするのだが、存在するのは解釈だけで、ナラターと作者は別で、作品は作者のものではなくて読者のものなのだ。

人間はたいへんだなあ。私は健康も死も考えずにただ食べることを考えていればいい、と云ったらワンコーに、「お前も知らぬ間に健康管理されいるのだぞ」と云われてびっくりした。そういえば死にかけたはずの私が今も生きているのはどうしてだろう。やはり私もこの得体のしれないシステムに組み込まれているのだろうか。どおりで、ただ自由に生きようとしているだけなのに、壁にぶち当たってばかりだ。

著者近影
著者近影:自分もシステムに組み込まれていることを知り、驚いて教授に確認する著者。著者は滅多なことでは教授に近寄らないので、その驚きがよっぽどであったことがお分かりだろう。モネはこの問題について全く関心がないようである。

2011/07/28

コトラ7:最後はどう死ねと?

第4回で「吾輩は猫である」の猫の主人による自死肯定論の話をした。聞くところによるとその言い分は、人間は死ぬということが分かっているのだから、どうせ死ぬのならどう死ぬかが問題だ、ということらしい。だが、自分の死に方について真剣に考えている人間など、私の周りにはさっぱり見当たらない。

私は犬だからいいのだ。犬だから「死」という概念がない。私には過去も未来もない。ただ現在を生きればよい。ひたすら食うことの快楽だけを追い求めて後先考えずに生きることが許されている。ところが人間ときたら、自分が必ず死ぬことを知っているくせに、口ばかり偉そうなことを云って、結局私と同じように、いや、むしろ私よりも必死に生にしがみついている。

人間の言語と論理の世界でどうやって死ぬのが良いのかを考え始めたら、須原一秀のように(参照)自死が一番いいのだという意見が出てくるのも当然である。しかし、猫の主人による「将来は死因のほとんどが自死になる」という予言は全く外れ、逆に現代人は故意に死から目を背けるようになってしまった。

循環器の医者は虚血性心疾患をいかに予防するか騒ぎ、脳神経の医者は脳卒中をいかに予防するか声高に叫ぶ。癌の医者は早期発見が大事です、定期的に検診を受けましょうという。内分泌の医者は糖尿病は万病の元ですといって奮闘する。それぞれの病気の専門家がそれぞれの病気について予防予防と騒ぎ、手遅れにならないうちに病院を受診しろという。

それではいったい人間は、最後はどのように死ぬのをよしとしているのだろうか。とかく死は悲しむべきもの、防ぐものとばかりされ、死は必ず訪れるものでありながら、どのような原因で死ぬのが理想的なのかというコンセンサスが人間の間には全く存在しないように見受けられる。

私は一度死にかけたことがある。台所で発見した食料を人間に取り押さえられる前に完食しようとして慌てたため、包装ごとすべて飲み込んでしまった。長いビニールが紐状となって私の腸内に留まり、私は意識不明となって何日間も点滴だけで過ごした。医者は残念だが死ぬでしょうと云ったらしい。医者の言葉に反してどういうわけか私は今も生きているが、点滴の針が入っていた前足がひどく化膿し、その傷跡は未だに癒えず、痛みも取れない。

もちろん私は何も覚えていないし、どうして前足が痛いのかも分からない。凝りてもいないので、今日も人目を盗んでは台所をうろついて食べ物を探している。どうやって死ぬかなど考えない。死ぬときは知らないうちに何かの原因で死ぬ。因果関係という概念もないので、その原因なども、どうでもいい。

誰もが死ぬんですよ。そして百年もたてば、たいての人間が、どんなにして死んだかを詮索されはしません。自分のいっとう気にいったやり方で死ぬのが最上ですよ。 ――万延元年のフットボールより

著者右前足近影
著者右前足近影

2011/07/21

コトラ6:私の行動規範

私をこの家に連れてきたのは飯やり女である。私はペットショップの檻の中で最後に売れ残ったチワワの子どもだった。なぜ売れ残ったかというと、子犬にありがちな人間に対する愛想というものが全く見受けられなかったからだ。私は呼ばれてもなんら反応を示さないし、なでられると硬直してむしろ少し嫌な表情を浮かべる。もちろん挨拶がわりに人間を舐めるということもしない。なぜなら人間を舐めても美味しくもなんともないからだ。あまりにも無愛想なものだから、飯やリ女は私の耳が聞こえないと勘違いしたらしい。そして同情されてこの家に連れてこられたわけである。

私は今だに呼ばれてもほとんど反応しないし、なでられるのは嫌いである。ほめられても尻尾を振ったりはしない。モネは名前を呼ばれたりほめられたりすると盛んに尻尾を振って愛らしいダンスを踊る。なでられるとうっとりして横たわる。だから人間に可愛がられるのはいつもモネばかりであり、みんな私のことを「犬らしくない」といって毛嫌いする。私にしてみれば、ほめられたりして何が嬉しいのか全く理解できない。ほめられて何が得だろうか。ほめられることで腹が満たされるだろうか。

そろそろお分かりかと思うが、私の行動規範は、どうすれば食べることができるか、その一点だけである。ときどきモネが出すメス特有の臭いに惑わされることはあるものの、脳の99%は「食べること」を考えるために使っている。トイレに行った後も、もしかしたら褒美のドッグフードがもらえるかもしれないので、毎回しつこくアピールする。このとき人間は「よくできたねえ」とか言って私をほめるのだが、そんなことは私にしてみれば時間の浪費に過ぎない。ほめるのなら空に消える言葉などではなく、ぜひとも現物でいただけるとありがたいのである。

著者近影:なでられて硬直する私
著者近影:なでられて硬直する私。四肢に力が入っているのがお分かりかと思う。
なでられてうっとりするモネ
なでられると横になり、うっとりとするモネ。なでられてどうして気持ちが良いのか私には理解できない。

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