続々々・教授の真夏
「ど、どちらさまですか?」と書いたところで、わたしはほとほといやになっていた。いったい誰が読み続けてくれてるだろう。こんなもの、わたしだって読み返さないかもしれない。だが、そもそも読者など気にせずに自由に書きたいという望みから始めたことではなかったのか。それならば、誰が読もうが読まぬが、関係のないことではないのか。
どちらにせよ、乗ってしまった船から降りることはもはや不可能だった。読者からは自由になったのかもしれぬが、こんどは自分の文章そのものに束縛されてしまい、わたしは意に反していやいや書き続けるはめに陥っているのであった。
二人の男は刑事だった。坊主頭のオヤジが捜査一課の、ノッポの若造が所轄署の刑事だと名乗った。
続々・教授の真夏
あたりが暗くなり静けさが闇を包むころ、スポットライトを浴びて壇上にひとりのギタリストが浮かび上がった。ジェームス・タイラーから繰り出される適度にディトーションの効いたのびやかな音が、「さくら」のメロディを奏でた。
「鳥山さん……」
稔は大きな口を開けたままスクリーンを見つめていた。
二十年以上前になるが、稔は鳥山の指導を受けたことがあった。まだ学生でプロの音楽家を目指していたときのことである。当時、すでに新進気鋭の若手ギタリストとして注目を集めていた鳥山の前で、稔は自分のバンドを率いて渾身の力を出し切った。演奏し終わるとすぐに鳥山を見つめて評価を待った。だが、いつまで待っても鳥山は無表情のまま黙っていた。沈黙の時間に耐えられなくなった稔は、ついに自分から口を開いた。
「あの、どこが悪かったでしょうか……」
すると鳥山はおもむろに、「格好だね」と言った。
「はあ?」
「格好だよ。まず、そのボロボロのジーンズがいけない。どんなに良い演奏をしたって、見た目が悪けりゃ聞いてくれないよ。たとえばさ、ほら、見て、僕の」
呆然とする稔たちに向かって、鳥山は自分の赤シャツの襟や黒い革ズボンの裾を引っ張りながら続けた。
「このシャツとかさ、このパンツ、これってユキヒロさんのブティックで買ったのね。知ってる? ブリックス」
続・教授の真夏
稔(みのる)は、7月24日分のブログ更新について悩んでいた。といっても稔自身のブログではない。世界的に高名だとかいう大学教授のブログを、稔はアルバイトで代筆しているのだった。ただし、教授と名乗るその人物とは一度も会ったことがないし、その人物の本名も知らない。そもそも、その人物が本当に世界的に高名なのか、はたまた本当に大学教授なのかさえ疑わしかった。だが、そんなことは稔にはどうでもよかった。月に数回送られてくるいい加減な原稿を、適当に肉付けしてアップロードする、それだけで相当の金額が銀行口座に振り込まれるので、なにも不満はなかった。
教授の原稿にはいつも、自分のブログが他人の代筆であることを隠したいという意図が見え隠れしていた。7月24日分の原稿にも、ブログはあらかじめ書き溜めてあり、自動的にアップロードされるようプログラミングしてある、というようなことが書いてあった。自分がコンピュータに精通しているように見せかけたいのかもしれない。稔にはそれが教授のちっぽけな見栄のように思えて可笑しかった。大物感を漂わせたかったら、コンピュータ通であることを匂わせるよりも、人を雇って書かせていることを知らせてしまったほうが、よっぽど効果的なのにな、と思った。
悩んでいたのは、教授から送られてきた7月24日分の原稿がとても中途半端な内容で、肝心のことが書いていないうえに、突然尻切れトンボで終わっていたからである。これまでの連載内容から考えて、神戸で観た映画の感想が中心となるはずであったが、その原稿はなぜか神戸空港から三宮に向かったところで途切れていた。念のため何日か待ったのだが、それ以降教授からの連絡はすっかり途絶え、音信不通となってしまった。
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