ザンビの記憶
「この試薬ラベルはレッドだ。いいね?」
僕といっしょに実験をすることになったジョージが、僕の英語力を心配して実験前に色の呼び方を確認しておきたいと言い出した。
「レッドなんかだいじょうぶだよ。簡単だ」
「これはブルー」
「おいジョージ、ブルーもだいじょうぶだって」
ずいぶんばかにされたものだと思ったが、彼らはただ確実性を高めたいだけであって、このような確認作業のときに日本人が顕にしがちなメンツとか自尊心みたいなものは彼らには希薄である。極端な例だと、ボス(教授)が原稿のスペルチェックを僕みたいな平研究員(しかもオリエンタル)のところに平気で持ってきたりする。平社員が社長のチェックをするようなもんだ。日本じゃまず考えられない。僕みたいなものがあなたのように高名な教授の原稿なんかチェックしたりできませんよ、とかいう僕の怪しげな英語をウザそうに遮り、ボスは単なるダブルチェックだよと言い捨てて原稿を置いていくのだ。
ジョージとの色の確認作業は楽勝で終わると思われたが、最後の最後で僕はジョージの言葉を何度も繰り返さなければならないはめになった。
「これはラメンだ」
「ラメン?」
「そう、ラメン」
ラメン――初めて聞く色だった。ジョージが指さしたのは薄い黄色である。このような薄い黄色のことをアメリカではラメンというのだろうか。ラメンってなんだろう、花の名前だろうか。
「あの、もう一度ゆっくり発音してくれない?」
「いいよ。ラ ・ メ ・ ン」
なんど聞いても分からない。そのうち、僕はまさかとは思うけどラーメンの黄色い麺を思い出した。
「ラーメン?」と僕は箸で麺をすくう仕草をしながら言ってみた。
「はぁ……」とジョージはため息をついて目をつぶったまま動かなくなった。
それからしばらくして、ラメンの正体が判明する。
それはlemon、すなわち日本でいうところのレモンだったのだ。
そりゃあおまえの耳がおかしい――と、お思いになられるかもしれないが、どうかその判断は、これを聞いてからにしていただきたい。
イギリス人のレモンはたしかにレモンと聞こえるけど、アメリカ人の発音はだらしなくて、とてもレモンには聞こえない。こりゃあラーメンと聞き違えても無理はないね、と言ってくれる人がどうか大勢いることを心から願う。
そしてこのときから僕の中で、レモンは発音の難しい英単語第三位にランクインしたのだった(ちなみに一位はcelery、セロリである)。
*
僕らの実験室の棚には古いチューナーとスピーカーが測定機器などと一体になって収納されており、実験はFMラジオを流しながら行うのが習慣となっていた。FMはチャンネルごとに流れる音楽のジャンルが全く異なるのだけれど、我が実験室は若い白人男性が多かったせいか、いつもオルタナティブがかかっていた。いつまでもカート・コバーンの死を悼むそのチャンネルは、いまだに日に何度もスメルズ・ライク・ティーン・スピリットをかけていたのだが、そのときスメルズ・ライク……と同じぐらいの頻度でかかりまくっていたのがアイルランドのこのバンドのこの曲だった。
「ザンビっていったいなんだい?」と僕はチーフ・テクニシャンのスティーブに訊いた。
「ザンビっていうのはなあ、んー、おまえに分かるように説明するにはどう言ったらいいかなあ、まあ簡単にいうと、一回死んじまったのに死体のまま蘇ることだ。ほら、よく映画とかにもなってるんだけどなあ、見たことないか?」
僕は少し考えてからようやく気づいた。
「分かった! ゾンビのことか!」
「そうそう、ザンビだ」
*
このラボの教授、すなわち僕のボスはアイルランドの移民の子孫で、それはもちろん研究業績がすばらしいということもあるのだが、その容貌がおよそ研究者らしくないということにおいても、この業界ではわりと有名だった。長く伸ばした白髪にエメラルドグリーンの瞳を備えた顔はロックスターみたいだったし、原色のカラーシャツに黒いスーツ、ピカピカに光り輝くエナメルのシューズは大金持ちのハリウッドスターを連想させた。
いつも会議に学会に講演にと引っ張りだこのボスだったが、その日は珍しく外出の予定がなかったので、丸一日かけて何匹もの犬を手術した。
犬の術後のケアはだいたい僕の役目である。動物センターの手術室から実験室に帰ってきた犬たちは、時間が経つとともに徐々に回復の兆しを見せ、ヨダレ混じりの呼吸音がだんだんと荒く大きくなってくる。みんな腰を抜かしたようなかっこうで糞尿を垂れ流している。
「はっ! まるで東京サブウェイだな」
ボスは、自分は今洒落たことを言ったぞといわんばかりの得意気な顔を僕に向けた。
「ふん! 全くデンジャラスな国だ!」
ほんの二ヶ月前、あの大地震が起きた後、ボスはすぐに僕を部屋に呼びだし、ひどく深刻な顔をして、お前には被災した家族や知人はいないのかと聞いてくれた。彼らは天災のときにはまず被災者への憐れみを大いに顕にする。
だが、テロリズムに対してはまず敵意を剥き出しにする。二ヶ月前に心から僕を心配してくれたボスは今、まるで犯罪者でも見るかのような蔑んだ目つきで僕を見ているのだ。ボスに限った話じゃない。二ヶ月前は見知らぬ人までもが寄ってきて僕を抱きしめて悲しんでくれたというのに、もうあの大地震はすっかり忘れ去られ、今じゃ日本人というだけで毒でも持ってるんじゃないかという目で見られる始末だ。
「デンジャラス・シティ! トーキョー!」
そのとき、犬たちが覚醒しだし、うつろな目をしたまま立ち上がろうともがいていた。どうせふらつくのだからそのまま寝転がっていればいいものを、あいつらはばかだから本能的に立ち上がろうとするんだ。そして立ち上がってはガシャーンと檻にぶつかってまたひっくり返る。その繰り返し。
「こういう姿をなんていうか知ってるか。ザンビだ、ザンビ」 そしてボスは、あとはよろしくと言って帰っていった。
ザンビ、ザンビ、ザンビ……
Zombie, zombie, zombie......
ザンビはあんたが作ったんじゃねーか!
What's in your head, in your head......
僕は舌打ちした。
あのとき僕は、愚かな一部のものが犯した罪のために、自分と自分の国がばかにされていると感じた。僕は犯罪者を恨んだ。ボスのことも、そのときはひどい人だと思った。
だけど、僕がボスに反抗心を抱いたのはこのときの一回きりだった。ボスが蔑んだ目で僕を見たのもこのときの一回きりだ。その後ボスは僕を見込んでよく仕事を回してくれるようになったし、数年後に僕が帰国したあとも何度も来日して僕を訪ねてくれた。
一回きりの蔑んだ目だったからこそ、あの目は僕にとって忘れられないものとなった。
他のスタッフたちも、犬を僕に任せて帰っていった。他の研究室や廊下も真っ暗になり、このフロアにいるのは僕と犬たちだけになった。僕と犬たちがいる実験室の照明だけが光光と輝いている。犬たちはやっと四本の足をしっかりと地につけて立てるようになったが、いったい何が起きたのか分からないというような顔をしていた。もうすっかり目覚めて立っているのに、口から挿しこまれたチューブを通してシュルシュル呼吸しているのが滑稽で、僕は笑いをこらえきれなかった。苦しいのに笑ってごめんよ。だがよく考えれば相手は犬なのだから別に笑いをこらえる必要もなかったのだ。僕はよしよしといって気管チューブを抜いてやった。その瞬間、犬はまたゲホゲホと激しく咳をし、その咳が誰もいない夜中のフロアに響き渡った。僕は管を抜いて楽にしてくれた恩人なのに、犬は何をしやがるとでも言いたげな反抗的な目つきで僕を見ていた。
記憶シリーズは主に洋楽とアメリカをテーマにしたフィクションです。
円周率と君の無限の可能性について
なるほど、円周率が無限に続く数字であるように、僕の可能性も無限に広がっているってわけか。よーし、僕も円周率のような無限の可能性に賭けてみるか!
ちょっと待った! 小スミルノフ君、円周率が無限だって?
あ、数ミルノフ教授!
おかしなこと言っちゃいかんなあ。円周率が無限なわけないだろ。
いや、円周率そのものが無限だといってるわけではなくて、πの小数点以下が無限に続くというところに無限の可能性をかけているわけで……
ふーん、一見ロマンティックに思えるけど、それって実はおかしくないか? 本当は君たち子どもの可能性が「無限大」だってことを表現したかったんだろう? そこにπを持ってきてもなあ。3.14......なんてしょせんたったの約3だろ。むしろ「........3.14(小数点以上は無限に数が並ぶ)」って書いた方が、よっぽどでっかい可能性だぜ。
でも先生、πは小数点以下が無限に続くだけでなく、繰り返しが循環することもない特別な数だって聞きましたよ。
君ねー、無理数ってそれこそ無限にあるんだから、そんなのπじゃなくたっていくらでもあるだろ。
いやいや先生、πは神秘的ですよ。たとえば小数点以下の途中で9が6個続いたりして、おやおやこれで循環するのかな?と思わせておいて、それでも循環せずにまだ続く、すごい数字なんですよ。
あのね君、だって無限に続くんだったら、9が100個続く場所だってあるだろうし、0と9が交互に100個続く場所だってあるだろう。つまり、無限に続くってことは、何でもアリってことじゃん。
あ、いや、でも、ほら、たしかに無理数はたくさんあるかもしれないけれど、その中でもπは特別なんですよ。πは無限の象徴なんです。
んー、無限を表現するのに、なんでそんなにπにこだわるかなあ。じゃあ君にひとついいもの見せてやろう。ここに0から5までの実数を表す円柱を用意した。おそらくπはこの3から少しだけ大きいところに埋没していると思われる。実際に切りだして見つけてごらん。
よーし、πを見つけるぞー。ギーコギーコ……
あっ、切れた。コロン……
ちょっと思い切りが足りなかったようじゃな。そこは3.15だ。もう少し切らなきゃπは現れないぞ。
くそー。ギーコギーコ……
あっ、切れた。コロン……
今度は切りすぎたようじゃな。こっちの面は3.14だ。するってぇと、この間にπがあるってわけだな。それにしても薄いなあ。ペラペラじゃん……
うわあ、ほんとだ。薄すぎて向こうが透けて見えるぜ……
君の可能性ってこんなに薄っぺらで、先が見えちゃってるんだなあ。はっはっは。
く、くそー……
ちょっとこっちへ着てごらん。
あっ、何をするんですか、教授!
こうやって君を直径にしてちょうど円になるような木を用意したんじゃよ。
その木をまっすぐにして立ててごらん。
あっ、こ、これは……
君を「1コスミ」とすると、その木の高さが「πコスミ」だ。それが君の可能性じゃよ。よーするに君の可能性なんか、せいぜい今の約3倍ってとこだね。
約3倍って、先生、大雑把すぎませんか? せめて約3.14倍とか……
はーはっは。現実世界は近似でできておるんじゃよ(って誰の言葉じゃったかな。ラッセルじゃったろうか……)
……。
だいたいね、君の可能性が無限だなんていうのは幻想にすぎない。なぜならば、「君が成長していく」ということは、ひとつずつ何らかの「可能性を失っていく」ことと同義だからだ。例えば君はそのうち、プロ野球選手になる可能性、サッカー選手になる可能性、総理大臣になる可能性、官僚になる可能性、外科医になる可能性……などといったふうに、いろいろな可能性を少しずつ捨てていくことになるだろう。ところが、もしも今、君の可能性が無限だと仮定するならば、そういうふうにひとつずつ可能性を失っていったとしても、可能性はいつまで経っても無限のまま、っていうことになってしまう。なにせ元々が無限なんだからな。
先生、それはそうなんじゃないですか。だって、いくつになっても夢を忘れるなっていうじゃないですか。いくつになっても頑張っていれば可能性は無限のまま、じゃないんですか?
そうかなあ。じゃあ逆に聞くけど、君は、先生のような老人でもこれから頑張れば大リーガーになれると思うかね? あるいは先生がこれからレアルマドリードの選手になれると思うかい?
いや、それはさすがに……。
はっはっは。誰がみたって無理じゃろ。つまり、先生は今までの人生のどこかで大リーガーになれる可能性やレアルマドリードの選手になれる可能性を失ったってわけであり、現在の先生の可能性は有限だということだ。それはつまり、先生の可能性が、最初から有限であったことを示すのじゃよ。
んー、なんか騙されているような気がするなあ……。
だいたいね、君、人生そのものが有限なんだから、可能性が無限だなんて最初から無理な話じゃ。努力すれば何にでもなれる可能性があるなんて、可能性を持たない人間を慰めるための幻想にすぎないね。はっはっは。
でも先生、たとえば「先生がいつ死ぬか」というのも先生の可能性の一部ですよね。
おいおい、年寄りだからって簡単に殺しちゃいかんぞ。
そこで先生がこの先「時間t」を経過した瞬間に死ぬとしますね。tを実数とすると、実数は無限にあるのだから、「先生がいつ死ぬか」の答えも無限にあります。すなわち、先生はすでに「先生がいつ死ぬか」という無限の可能性を有しているわけだから、たとえ大リーガーとかレアルの選手になれる可能性が消失していようとも、やっぱり先生の可能性もまだ無限だ、ということができると思います!
んー、なんか騙されているような気がするなあ……。
僕は教授と違ってまだ若いんですよ。自分の可能性がπのように無限だっていうことを信じたいんですよ。あっ、先生! そういえば、さっきのあの「πコスミ」の木の断面、あの面にπがあるんじゃないですか?
そうかなあ。自分の目で確かめてごらん。
あ、πがないぞ……
だからさあ、πなんて現実にはないんだってば。現実には無限なものなんてないの。
先生、ひょっとしてπが嫌いなんですか?
ああ、嫌いだね。なにみんなして騒ぐわけ? πなんて、しょせん約3じゃね?
先生、ひょっとして、πなんてこの世から無くなればいいと思ってるんじゃないですか?
無くなればいいなんて思ってないよ。だって、実際に無いんだから。
いや、先生! 先生は間違っていますよ! だってπがなければ、この世に丸い物が存在しなくなるんですよ。
丸い物? たとえばおっぱいもかね?
……。
しょうがないなあ。そんなにπが見たいのだったら、πがいったいどこにあるのか見せてやろう。
とかいって、自分のおっぱいを見せるとかの見え見えで下品なギャグはやめてくださいよ。
そんなことはしないよ。
うわあ、教授! 何をするんですか! 危ないからやめてください。
本物のπを見せてやろうか!
早まらないでください!
やーっ!!
うわあー!!
……。
……。
見えるかね? 「π」は我々の頭の中にあるのさ。
教授……、それって「π」じゃないですよ。
え? ちょうど「π」のところで切ったつもりなんだが、手元が狂ったかな?
「兀」っていう漢字になってますよ。
「兀」だって? いったい何て読むのかね?
「コツ」ですけど、毛が無いって意味もあるので「ハゲ」って読むこともあります。
ハゲだって? 私がずっとパイだと思っていた私の頭の中にある無限なものは、実はハゲだったというのか? なんてことだ!
完
頭ミルノフ教授 最後の頭痛
以上、第8回をもって頭ミルノフ教授シリーズは一応終了とします。お付合いくださってありがとうございました。素人漫画ばかりもなんなのでテキストものをあいだにはさもうと思っていたのですが、今ひとつ文章書く気分になりませんでした。どーもすいません。
頭ミルノフ教授シリーズ全作品:
頭ミルノフ教授その7:閃輝暗点
頭ミルノフ教授その6:目の奥の激痛、群発頭痛
頭ミルノフ教授その5:経験したこと無いような頭痛、くも膜下出血
頭ミルノフ教授その4:ズキンズキン痛い、片頭痛(赤バージョン)
頭ミルノフ教授その3:ズキンズキン痛い、片頭痛(紫バージョン)
頭ミルノフ教授その2:お椀をかぶせられたように痛い、筋緊張性頭痛
頭ミルノフ教授その1:しめつけられるように痛い、筋緊張性頭痛
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