コトラ15:レフラー球を食べた犬
突然ですがスミルノフ教授です。そうです、本日は休養中であるはずのブログ主が自ら書いています。ブログ主が自ら書くなんて当たり前なのに、それをわざわざ明記するのは何だか照れくさいですね。でもわざわざ明記せねばならんのです。犬の代筆を遂に終了させての完全復帰ということであれば、そこまでしつこく明記する必要もないのですが、犬にはまだいくらか書き残したことがあるようなので、私はもうしばらく復帰を思いとどまって犬に書かせる余地を与えようと思います。ただし、ここでいったんブログ主である私が自らの言葉を差し挟む必要性が出てきました。すなわち、これはブログ主の復帰というよりは、代筆である犬に代わって書くようなもの、言わば代筆の代筆なのです。だから私が筆者であるにもかかわらず、題名は引き続きコトラの連番になっています。
ではどうして代筆をいったん中断してまでわざわざ私自身が登場するのか。それは、前回のエントリーで、犬が嘘をついた可能性がある、からです。そこのところを正しておかなければなりません。
では前回のエントリーで使用された写真をもう一度ごらんください。
まるで犬が辞書を読んで理解しているかのように見えます。しかし、常識的に考えて、いったい犬が文字を理解するでしょうか。そんな分かりきったことを今さらのように持ち出すのは、当ブログの存在意義に関わる問題かもしれません。確かに当ブログは設立当初からフィクションじみた面を有しています。しかし、ファンタジーやSFをやっているつもりはないので、ある程度のリアリティというものは保持されなければならないと私は考えています。百歩譲って、小人が出てきたり、月が二つになったりするぐらいはよしとしましょう。しかし、犬が辞書を調べるなどというのは、(自分でやっておきながら)やはり自分でも受け入れ難い設定であったと考え直し、おおいに反省しているのです。
そこで私は犬を呼びつけ、犬がほんとうにその辞書を調べて意味を理解したのかどうか問いただすことにしました。
*
「おい、犬。ここに座れ」、私は後ろ足を突っ張って抵抗する犬の首輪に指を掛けて引っ張り、無理やり私のそばに座らせた。
「痛いなあ、そんなに強く首輪を引っ張らないでくださいよ。なんども言うけど暴力で犬はしつけられないんだってば」、と言っているような表情を犬は浮かべた。
「今日はお前としつけについて議論するつもりはないんだ。そんな時間もない。話を急ごう」と私は言いながら例の辞書を犬の鼻先に突きつけた。
「お前はこの辞書を調べてbow-wowだとかruff-ruffだとかを確認したことになっている。お前は本当にこの英文字を認知して理解したのか? 私には到底信じられん」と私が言うと、
犬は私からも辞書からも目を背けながら、「もちろん理解できましたよ。そりゃあ紙とインクの臭いが強烈でその嗅覚による信号が僕の視覚情報を凌駕しそうになったことは確かです。けれども僕はちゃんとそれが辞書で、書かれているのが英文字だってことぐらいは分かりましたよ」とでも言いたげな顔をした。
私はさらに犬の首輪を引っ張って、犬の鼻先を私の眉間にこすりつけながら言った。
「いや、お前は嘘をついている。ここに書かれているのは本当は文字なんかじゃないし、だいたいこれは辞書ですらないかもしれないんだ」
犬は私の言った意味が理解できない様子だった。あるいは私の言うことには最初から無関心を決め込んでいたのかもしれない。それともこの犬はそもそも私の言語を理解できないのかもしれなかった。そして犬は私の老人臭を嗅がなくてもすむよう自分の鼻先をなるべく私の眉間から離そうと上体を反らせた。もちろんそれは無駄な努力だった。でも犬にはそれが無駄かどうかなんて分かりゃしないのだ。
「お前はジャストロー錯視というのを聞いたことがあるか」と私は犬に無駄な質問をした。
私は「お前が知っているはずもないので教えてやろう。教えてやったところでお前が理解できるとは思えんがな」と続け、皿にのせた二切れのバウムクーヘンを用意した。
「ここに二切れのバウムクーヘンがある。上のバウムクーヘンと下のバウムクーヘン、どちらか大きい方をお前にやろう。さて、どちらが大きいかお前に分かるか?」
バウムクーヘンを見る犬の瞳孔が、まるでそこから犬の脳味噌が透けて見えるんじゃないかと思えるぐらい大きく開いた。
「人間には下のバウムクーヘンの方が大きく見えるんだが……、ああっ!」
私の説明が終わらないうちに犬はものすごい力で躰を捻りながら暴れだした。袋に詰められた得体のしれない生物が命がけで脱出しようとするような激しい暴れ方だった。首輪に引っ掛けた私の指にかかる犬の体重が、いつもの二倍も三倍もあるような気がした。犬は釣り上げられた巨大な魚のようにのたうちまわり続けた。私は犬の日常的な醜さを超えたその姿に背筋が凍るほどの嫌悪感と恐怖を感じ、つい犬の首輪から指をはなしてしまった。
すると犬は猛獣のような鼻息とともに皿の上のバウムクーヘンをあっという間に二切れともたいらげてしまった。バウムクーヘンが消失したあとも、バウムクーヘンの実体以外の何ものかがまだそこに残されているかのように、大量のヨダレを流しながら皿を激しく舐め続ける犬を、私は呆然として見つめていた。
しばらくすると犬は頭を上げ、私の方へ視線を向けると、突然私がそこに現れたかのように驚いて、怯えるように二三歩後退した。その光景を何も知らない他人が見たら、私がいつも犬に暴力を振るっていると誤解するんじゃないかと思えた。犬から離れた皿はたった今買ってきたと見間違うほど磨き上げられて光沢を帯びていた。
犬の瞳孔は元の大きさまで縮小していたが、大きく見開かれた瞳のまわりには涙が潤んで、自分のしてしまったことを許してほしいと哀願しているようにも見えたが、単に私を畏れているだけかもしれなかった。あるいは、恐る恐るバウムクーヘンのおかわりを要求していたのかもしれない。いずれにしろ私はいつまで経ってもこの犬の考えることがよく分からないのだということを思い知った。
「大きい方をお前にやると言ったのに二つとも食べたということは、お前にはどちらが大きいのか分からなかったということか?」
私は犬に動揺を悟られぬよう努めて平静を装った。
「それともお前には二つとも同じ大きさに見えたんだろうか? さっきも言ったように人間には下のバウムクーヘンの方が大きく見える。だが実際には二つは同じ大きさだったんだ。だから、同じ大きさに見えたので二つとも食べたというのなら、お前は正しい。その一方で、人間に生じる錯視という現象が、やっぱりお前には生じ得ないんだということも、同時に証明されることになるな」
私はすでに冷静さを取り戻していた。そのおかげで、自分の言っていることが単なるこじつけに過ぎないということも自覚できるようになっていた。
私は一冊の本を取り出し、その一節を朗読した。
この紙面に描かれているのは本来、全く文字などというものではなく、ひたすらのたくって繁茂した得体の知れぬ基盤図形に他ならない。これを文字と見做しているのはあなたであって、人間以外の認知系には、同様の効果は引き起こされない。(中略)入り組みまくった紋様を目撃したあなたの認知系は、まず宙に浮かぶレフラー球を錯覚する。あなたがそうと気づく前に、レフラー球はもとの紋様をレンズを通したかのように変形して、まるで文字のようなものとして展開する。それがあなたが見ているこの文章に現在起こっている現象である。――円城塔 Boy’s Surfaceより(Boy’s Surface収録)
「つまり、お前が文字だと言い張ったその黒い紋様は、実際には文字ではなくて紋様に過ぎない。それは人間が見るとレフラー球を錯視するように設計された基盤図形なんだ。そしてその錯視したレフラー球を通して基盤図形を見ると、人間はその基盤図形を文字に錯視する。すなわち錯視されたレフラー球が紋様を文字に変換するといえる。その結果、人間はただの黒い紋様を文字だと認識する仕組みになっているわけだ。だから錯視の生じない、人間じゃないお前が見たところで、お前にはレフラー球を錯視することはできないし、ましてや黒い紋様が文字に見えたりするわけがないんだよ。
付け加えるならば事態はもっと複雑だ。ただ単にひとつのレフラー球が黒い紋様を文字に変換しているってわけじゃない。レフラー球によって変換された紋様が新たなレフラー球を幻視させる紋様である場合もあるからだ。理論的にはこの現象は無限に続き得る。つまり私たち人間の目とこの辞書の間には無数のレフラー球が存在し、その複雑な相互作用による変換の結果として文字を認識しているというわけだ。
いいかい、レフラー球の効果はひょっとすると文字だけに関わるってわけじゃないかもしれないよ。この印刷されているかのように見える紙、あるいは本という体裁そのものも幻視なのかもしれない。だとすればお前にはこれが辞書だってことすら分からないはずだ」
私はレフラー球について大いに語る自分自身に陶酔していたが、ここで一瞬、犬がこれを辞書だと分からないのはなにもレフラー球の存在の有無に関係ないのじゃないか、という考えが私の頭をよぎった。しかし、私の口は私の意志を無視してしゃべり続けた。
「さらにやっかいなことにはひとつのレフラー球が複数のレフラー球を幻視させる場合もあるし、逆に複数のレフラー球がひとつのレフラー球を幻視させる場合もある。すなわちレフラー球による変換は枝分かれする上に再び合流することもある。その結果……」
「その結果?」と、犬は首をかしげたように見えた。
「いったい出処がどこで、そして行き着く先がどこなのか分からない変換が、ただ無意味にぐるぐる循環しているレフラー球の連鎖が存在するかもしれない。いや、意味はあるのかもしれないよ。だって我々の脳神経のことを考えてごらんよ。我々は視覚などの情報をインプットし、それを神経細胞が伝え、そしてまた神経細胞を介したアウトプットによって話したり手足を動かしたりしている。だけど実際には我々の脳細胞の99%はインプットやアウトプットに直接関係せず、脳の中だけでただ情報をぐるぐるループさせているんだ」
そのとき奇跡が起きた。
犬に幻視できるはずのないレフラー球が(もちろん人間においてもレフラー球はそれをそれと認識できる幻視ではないのだが)、たったひとつではあるけれども、今、犬に判然と見えたのである。そしてそれは私にも見えた。私はレフラー球を実際に視認した世界で二人目の人間ということになり(もちろん一人目はレフラー球の発見者であるレフラーである)、犬は世界で初めてレフラー球を視認した犬になった。
初めて見るレフラー球を前に放心状態となった私とは対照的に、犬は非常に冷静だった。おもむろに辞書に近づくと、現れたレフラー球に鼻先をつけて臭いを嗅ぎ始めたのである。
そうして犬はしばらくレフラー球の臭いを嗅いでいたが、やがてそれを食べられるとものと判断したのだろう、ぱくりと口の中に入れて、たいして味わいもせずにそれを飲み込んでしまった。
もはや辞書の上にレフラー球は見えず、ただ犬のヨダレで汚された紙面が見えるだけだった。私は一個のレフラー球が犬によって破壊されたために高次元レフラー球構造の全体に歪が生じて、その結果として犬のヨダレによる汚れを幻視しているのではないかと考えた。きっと違うのだろうけれども、そのとき私はそう考えたかった。
レフラー球を食べ終えた犬は何かを言いたげな瞳で私を見つめていた。レフラー球のおかわりを哀願しているのだろうか。いや、きっと犬の心にはなんら意味はなく、それはただの紋様であるに違いない。そしてこの犬の眼球がレフラー球なのだ、という考えが私の頭に湧いた。
*
私のレフラー球や脳神経に対する理解が稚拙で不十分であるところは前もってお詫びしますのでどうかご容赦ください。と、私はチワワのような潤んだ瞳であらかじめ哀願するのだった。
コトラ14:犬は「◯◯◯」と吠える
先日家人の会話を聞いていたら、日本では犬は「わんわん」と吠えるそうである。いったいどこをどう変換したら私の吠え声が「わんわん」になるのか理解に苦しんだが、江戸時代までは「びょうびょう」というのが一般的だったと聞いて(参照)、やれやれいいかげんなものだと思った。
一方、アメリカ人はどうか。多くの日本人は、アメリカでは犬は「bow-wow」と吠えるものだと思っているようだが、bow-wowはとても古めかしい表現である。アメリカでbow-wowなんて使ったら、お前は明治生まれか!と突っ込まれると思うのでご注意いただきたい。いや、アメリカだから明治生まれはないな。アメリカ人ならなんていうだろう。お前は恐竜(dinosaur)か!かな。私はアメリカ人じゃないから分からないや。ああ、その前に人ですらなかった。
では現在のアメリカでは何が一般的なのかというと、私の友人であるアメリカ犬の亡霊約100匹に聞いてみたら、英語では「ruff-ruff」が一般的ではないかということであった。あえてカタカタにしてみるけど、「アメリカでは犬はラフラフと吠える」、これ豆知識な。
英語での表現は他にもないのかなと、私は初めて英和和英辞書なるものを調べてみたのだけれど、bow-wowとruff-ruffの他には、bark-bark、woof-woof、arf-arfなんてのがあった。日本語はオノマトペの言語とかいわれてるけど、こと犬の吠え方に関しては英語のほうが頑張ってるじゃんとか思うのは私の勘違いだろうか。
- 英和和英辞書を紐解く著者。
日本人にせよアメリカ人にせよ、どうやら人間はその言語圏の音素にしばられてしまっているようだ。かわいそうに。もっと心を開放して犬語に寄り添ってくれる人間はいないものかと教授に話したら、教授は人生に必要なことはだいたい中崎タツヤのマンガにかいてあるといって、これを教えてくれた。
「あ゛うる」、やるじゃん、中崎タツヤ。
追記:
さて今回は少し趣向を変えて、「私の言語ではない何かを人間の訳者が言語化している」という設定を大半の読者はそろそろ忘れてくれているのではないかという期待のもとに、あえてその設定を無視して書いた。収拾がつかなくなりついに初期設定放棄かよ、との批判はもとより覚悟の上である。だが振り返ってみればその初期設定はずいぶん前から、ひょっとすると初回からすでに崩壊していたのかもしれない。あるいはこう考えてくれないだろうか。人間の読者を想定して書いているうちに私は人間の言語や思考過程に感化され別世界に迷いこんでしまったのだと。
別世界。なんて都合のよい言葉だ。しかし人間だって、犬が言語も理性も持ち合わせていないことを頭で理解しながら、日常ではまるで犬が人間であるかのように家族の一員として扱ったりする。すなわち人間の頭の中と日常は別世界ではないのか? 別世界を普段から都合良く使い分けているのは人間のほうではないのか?
名作の誉れ高い「こゝろ」の序盤では「何処かで見た事のある顔の」先生が登場するが、結局何処で見たのか主人公は最後まで思い出せない。冒頭では「よそよそしい頭文字などはとても使う気になれない」と宣言しておきながら、後半はイニシャルKが大活躍である。大作家の名作であるがゆえに、この矛盾は大いなる謎として研究対象にまでなっているのだが、私は新聞連載ゆえに単に最初に書いたことを失念したんじゃないのかと思う。(訳者註:著者は犬なので漱石が入念な準備をしてから連載にとりかかったことを知らないのも無理はない。)
そこで読者にお願いであるが、私のこの連載における初期設定の破綻も、大いなる謎として崇めたてまつり、研究対象にでもしていただければ幸いである。矛盾や混乱、つじつまの合わない箇所は、私のミスなんかではなく、それこそ私が意図して残した「謎」ということにしていただき、おのおの解釈に勤しんでいただきたいと願うのである。
コトラ13:私の自由
私は自由である。
私の一日は台所のチェックから始まる。調理のあと母親が生ゴミをうっかり床に置き忘れていることがあるからだ。しかし台所を歩くときには、誰にも咎められないように全く音をたてない必要がある。
その後はリビングで食卓テーブルの周りを巡回し、どの程度ならばそこに飛び移れるか、毎日のようにその距離感を測定している。うっかり椅子が引かれたままならば、私はその椅子から食卓テーブルの上まで容易に飛び移ることができる。小さな台やソファなどがいつになく食卓テーブルに近づけられていることもあり、場合によってはそこから飛び移ることも可能だ。
私が隙あらば食卓テーブルの上を狙っていることに、もちろん家人たちは気づいている。だから奴らは席を立つときに、必ず椅子を元に戻すよう気をつけている。最近は嫌がらせのように、わざと椅子を180度回転させて背もたれ側を食卓テーブルに向けてから席を立つものもいる。うっかり椅子が引かれたままになっていたとしても、人目があればその場で取り押さえられて終わりである。だから人目は無いに越したことはない。
そうすると都合のよいチャンスはなかなか無さそうにも思えるが、実はたまにある。それは誰か客人が来ており、おもてなしを受けた客人が帰る瞬間である。それが最大のチャンスである。客人は椅子を戻すという習慣が身についていないから、引いたまま帰ることが多い。それに家人たちは客人を見送りに全員玄関に出る。その結果、リビングルームはもぬけの殻、飛び移るための椅子は引かれたまま、しかも食卓テーブルの上は客人が残したご馳走でいっぱいである。これ以上望めない条件が揃うのである。
だから私は客人が来るとずっと吠えている。特に客人が帰るときに最も激しく吠えまくる。家人たちは、人の出入りが嫌いなんだろうとか、客人が帰るのが寂しいのだろうなどと解釈しているようだが、本当はそうじゃない。最大のチャンス到来に興奮を抑えきれなくなって吠えているのだ。
いや、違うな。そんな複雑な理由じゃない。ただ人の出入りにつられて反射的に吠えているだけだ。あまり意味はない。
やがて自由は奪われる。やっぱり私は自由ではないのだろうか。
非自由? 不自由?
だけど、台所やリビングを歩き回れる以上の自由を私は知らない。
私にとって自由とは、台所とリビングと食卓テーブルの上、それですべてだ。
それが私の世界だということだ。
だから、私にはこの家を飛び出すなどということを思いつきもしない。
もし飛び出したとしても、それが自由だとは思えない。
檻に囲まれた檻を抜け出したところで、どれほどの意味があるだろう。
- 音もなくこっそりと台所をチェックする著者。突然写真を撮られて驚き、呆然としている。
- 小さなテーブルの上から食卓をうかがう著者。
- 椅子の上をゲットし、食卓の上のかりんとうを確認したものの、背もたれが邪魔でどうすることもできない著者。
- いい気になっている、と叱られ、ついに餌やり女にとっつかまってしまい、浮かない顔をしている著者。
- それでも執念深い著者は、まるでろくろ首のように首を伸ばし頭を回転させ、食卓テーブルの上をぎりぎりまでチェックする。以上が私の自由のすべてだ。
コトラ12:格言、名言、諺について
私は人間がよく引用する格言や名言、諺の類が理解できない。 「私は正直者ですと自分でいう者は、決して正直者ではない(オー・ヘンリー)」なんて聞くと、私は人間ですと自分でいう動物は人間ではないのだろうか、などと混乱してしまう。
私は一見おとなしそうなので、公園や獣医の待合室などにいると、犬好きの知らない人がよってきて「まあ、かわいい」といいながら私を撫でようとする。そのとき、私は猛犬のような唸り声とともに牙を剥く。場合によっては噛み付くことも辞さない。私にとって知らない奴は全員敵なのだ。
だから、私は「見かけによらない」とよくいわれる。
人間の世界には「人は見掛けに依らぬもの」という諺があるらしい。だが実際のところ、人は見かけによることの方が多いのではないだろうか。たまに人の意外な一面を見て驚いたりすることがあるものだから、それが「たまに」であるがゆえに、そして「意外」であるがゆえにこそ、「人は見掛けに依らぬもの」という言葉に人間は共感するのだろう。
「事実は小説より奇なり(バイロン)」という格言も同じことである。事実がいつもいつも小説より奇であったならば、人は小説など読まぬであろう。「たまに」小説よりも奇怪で「意外」な出来事に驚かされるものだから、その格言に共感するのだ。
逆にいえば、日常的で、ごく当たり前なことを言っても、ちっとも人の心に響かない。「人間は呼吸をしている」なんて格言にも名言にもならない。だけど、私たちに大事なのは日常的で当たり前のことのほうだ。
すなわち、格言、名言、諺なんてものは大概、「たまに起きる意外なこと」について述べているだけであって、大多数の普通の人間の普通の日常生活にはさっぱり役立たないと思われる。よく知らないが、ライフハックとやらもこの類ではなかろうか。「人を見たら泥棒と思え」といわれ、いっときも人を疑うことをやめないでいる人間などどれほどいよう。
連載も長くなり、私を嫌ってずいぶん当ブログの読者も減ったかと思う。しかし、「人食い犬にも合い口」というがごとく、数名の読者は熱心に読んでくれているようである。私はこのたった数名の読者のためだけにもう少し続ける。
- 名言を考える私。オンマウスで浮かぶはず。
- 教授御尊顔
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