コトラ11:犬に順位などあるか
アリの群れの行動をついつい人間社会に例えて考えてしまうのは人間のもっとも悪い性癖だ。働かないアリの存在意義は異変に対する余力である、だなんて、人間は意義を無理やり考え出す天才だなあと思う。人間は考えすぎる葦なのである。
人間は魚の群にリーダーなど存在しないことをようやく理解したようだが、サルやオオカミでは群れ社会を統率するリーダーとやらが存在すると考えているようだ。群れには個々の力関係や役割分担のようなものがあり、単純な上下関係やヒエラルヒーを形成している、というわけでもなさそうだなあ。と、つい油断して、人間の視点で書いてしまったが、そうだった、私はそもそも「リーダー」という概念を理解できない犬、ということになっているのをうっかり忘れてしまった。だって、そういう前提で書くとなると、くどい文章になってしまって自分でも飽きてきたんだもん。でも乗ってしまった船だ。仕方がない。
オオカミの、人間がいうところの「社会」における、人間がいうところの「リーダー」とやらである、人間がいうところの「アルファ・オオカミ」とやらは(ほら、くどいでしょ)、ただ強いだけではなく弱いものにも気遣い、その群れの行動を決定しているなどと人間はいう。人間はどうしたって、人間の常識内でしか物事を考えられないから、それでリーダーだの社会だのいうのだろう。人間の想像力や発想力はしょせん人間のものでしかないのだから、動物の行動に関していろいろと研究や学問があるのだろうけれども、結局それは人間の頭の中の範囲内で作りだしたものに過ぎないのだ。科学者にいわせれば、「この社会構成主義者め!」と怒りたくなるだろうけれども、私は犬なのだから、私は人間がいうところの犬なのだから、社会構成主義(社会構築主義)の立場をとったところで何の悪いことがあろう。
さて、私はといえば、私は飯をくれるからといって飯やり女を主人だとは思えない。メシの時間が来ると私は部屋中に響き渡る大きな声で吠えまくる。この家の家族は、私が「早くメシをよこせ!」とリーダーのごとく怒鳴っている、と思っているらしい。何の根拠があってのことだろう。逆に「早くゴハンをいただけませんか?」と言っているかもしれないではないか。いや、実はどちらでもない。私にとってはどちらでもいいことなのだ。正直にいうと私には両者の違いが分からない。私はただ「メシメシ」と叫んでいるだけだ。
私は飯やり女を主人だとは思っていないが、飯やり女と、彼女の代わりにときどき飯をくれるその母親には少々甘えることがある。これも別に彼女たちが上位だとか、彼女たちに対して愛情を持っているとかの理由によるものではない。甘え続けることで最終的に何か食べ物をくれる可能性があるからである。その他の人間に対しては、甘えたからといって食べ物をくれる保障はないので、甘えるどころか呼ばれても近づかない。ただ見知らぬ人間であっても食べ物を手にしていたならば、果たしてそれをくれる人間なのかどうか熟考に入り、様子をうかがう。
モネは私より一年後にこの家にやってきたのだが、そのとき私にとって、モネは黒くて小さな何か得体のしれない動く物質にすぎなかった。モネは私ほど食物に執着がなく落ち着きもなかったから、集中して餌を食べるということがなかったので、モネの餌皿にはいつも餌が半分くらい残っていた。私にはモネの餌を横取りするチャンスが何度もあった。しかし私は、得体のしれない黒い物質が食べているものを、私にも食べられるものだとは思えなかった。だから私は当初はモネの食べ残しに近づけなかったのである。日常の大半を食べ物について考えることに費やしている私が近づけなかったのである。もちろん今では、モネがとろいメス犬だということが分かったので、すきあらば餌を横取りする体制を整えている。しかしモネもそのへんはずいぶん学習したようで、最近は私に奪われまいと急いで食べるようになった。モネは私の真似ばかりして成長した。
現在のモネと私の関係は以下の写真のごとくである。力では私のほうが圧倒的に上なのに、モネは私を上から抑えつけようとする。そのうえ、チ◯ポもついていない腰を私に押し付けるのである。このような様子をみて、家族たちはコトラとモネではどっちが上位なのだろうと悩んでいる。私には順位などには関心がない。くどいようだが、そもそも順位という概念がないのだ。
- 私の上になろうとするモネと関心のない私。ここでひとつだけ注意を喚起しておこう。順位などというのは人間の概念にすぎないというのが前章から続く本章の主張であったが、「人間の概念にすぎない」ということ自体も人間の概念にすぎない、ということが否定できない。だって本章は人間によって人間の言語に意訳されたものなのだから。
コトラ10:アルファ症候群はあるのか
私は気に喰わないことがあると吠えるし噛み付く。そういう犬について、人間はよく「自分が家庭のリーダーであると勘違いした犬」と思いがちだ。そして勝手にアルファ症候群だの権勢症候群だのと名前をつけて、いいかげんな素人診断をする。アルファ症候群は症候群といっても病気じゃないというが、そりゃそうである。人間の立場として困るというだけで病気扱いされるのでは、こっちもたまったもんじゃない。また、アルファ症候群自体の存在の有無について、すなわち、犬は人間も群れに入れているのか、人間のリーダーに成りうるのかという点については、議論のあるところらしい。
どうして人間の間でアルファ症候群の対処法が混乱し、そして勝手に病気みたいな名前をつけておきながら、その存在自体が議論になってしまうのか。それはおそらく犬の行動を対象とする研究者が少なく、学問として確立していないからではないだろうか。動物行動学の研究者は野生動物を対象とすることが多い。したがって、犬の行動学に関してはオオカミについての研究業績がずいぶんと応用されている。だが、オオカミはあくまでも野生動物であり、ペットである犬とは生育環境が全く異なる。アメリカでドッグ・トレーニングのバイブルといわれている本の執筆者は学者ではなく、あくまでもトレーナーであり、その本の学術的なバックグラウンドもけっして充分とはいえない。
それにしても、祖先が群れで生活する動物だという理由だけで、犬は必ず自分に順位を付けるものと考えがちな人間たちにも困ったものだ。そんなのは人間が勝手に作りだした理屈に過ぎない。
だいたい私はリーダーというものがよく分からないのだから、自分がリーダーなんかになりようがないのである。もっと根本的にいえば、私には順位という概念がない。お前は私より上だとか下だとかいう話は、お前は私より横だ、とか、お前は私より縦だ、とか、お前は私よりΦだ、とかと同じくらい分からないのである。
だが、私が来る以前にこの家で飼われ、ランマルという名で呼ばれた犬は、話を聞いた限りでは、どうやら自分がリーダーというものだと思い込んでいたふしがある。散歩の時間になると必ずドアを開けろと大騒ぎで命令し続け、散歩の最中はけっして餌やり女に自分の前を歩かせなかった。散歩のコースは自分で決め、一周してきて家の前に達すると、まだ帰らないぞと全速力で走りだし、家の前をわざと通り過ぎたという。
ランマルは起床とともに家族全員を点呼してまわり、家族全員を統率していた。噛み付くときは本気で噛み付いた。噛み付いたまま首を左右に振った。それは甘噛みとか、はずみで噛んでしまったとかではなく、明らかに相手を痛がらせようと意図した噛み方だった。
驚くべきことには、年に数回しか帰省してこない餌やり女の兄に対してさえ、どこに行っていたんだと怒ったあと、再会を喜んで大いに歓迎したという。私なら数回吠えてやったあとに布団の中に隠れるところだ。ランマルはクリーム色のスムースコートでやや鼻が長く、とてもハンサムで人気があったそうだが、17歳のときに餌やり女の母の胸に抱かれながら眠るように亡くなったという。
- 私の前任のランマルは17歳で静かに息をひきとったという(模型)
コトラ9:従属主体化
権力は自動的なものになり、権力は没個人化する。誰が権力を行使するかは重大ではない。 (ミシェル・フーコー 監獄の誕生)
私はたえず監視され、規律訓練(ディシプリン)によってトイレはここだというような社会的な規範を身につけさせられる。今では言われなくても決められたトイレで用をたすが、これは換言すれば自分で自分を監視するようになったということである。友人のミシェル・ワンコーは、そんなのは本質的な主体化などではなく、監視者である人間の教えを自発的に内面化し従属する存在になっただけなのだという。
この監視権力の自動化、そして個々の存在の標準化システムは、人間の世界においても、刑務所、学校、病院、会社などといった近代社会における主な装置の中で、すでに有効に稼働しているらしい。
日本の内田という先生は、右手と左足、左手と右足を同時に出す現在の歩行法は明治以降の学校教育による「身体の標準化」の一例だといっている(参考)。また、「体育座り」にいたっては、子どもをもっとも効率よく管理できるよう考え出された身体統御姿勢なんだと怒っている(参考)。
私はワンコーの話を聞いてから、トイレのしつけに関しては既に身についてしまったことだし、うまくすれば褒美の餌がもらえるので妥協することにしたが、「おすわり」と「おて」には絶対に従わないぞと固く誓った。犬といえば「おすわり」と「おて」、というのは人間にありがちな実に短絡的で思考停止的な固定観念だ。私は固定観念が大嫌いである。
「おすわり」は犬にとって自然な姿勢だとよく聞くが、私は肩と首が凝ってしょうがないので、ほんとうにそうなのだろうかと最近疑問に感じている。私にとって一番楽な姿勢というのは、横向き寝であって、「おすわり」なんていうのは先祖代々遠吠えするときの姿勢なんじゃないだろうかと思う。しかも、ふわふわの布団や毛布の上でならまだしも、冷たいフローリングに尻をつけるなんて考えただけでもぞっとする。
だから私は餌やり女がいくら「おすわり」を教えようとしても、全く聞く耳を持たなかった。ところがその状況を一変させたのは餌やり女の兄だった。餌やり女の兄はアメリカでドッグトレーナーをしていたことがあり、実に巧妙なやり方で私に「おすわり」を覚えさせてしまった。ふせの状態から尻を押さえつつ、ちょうど「おすわり」をすると鼻先がとどく位置にドッグフードを握り、何度も「おすわり、おすわり」と言った。うまくできるとドッグフードが口に入り、餌やり女の兄は「グッドボーイ」と言って私を撫でた。撫でられても嬉しくともなんともなかったが、ドッグフードが口に入るのは悪くはなかった。訓練の時間は、私が訓練そのものを嫌いにならないような調度良い時間に設定されていた。すなわち長過ぎず、かといってすぐに忘れてしまうほど短くはなかった。
餌やり女の兄は、たしかにこんなに覚えの悪い犬は初めてだと言った。覚えが悪いというよりも、覚えてやるものかと頑なになっているような気がすると言った。たしかにそのとおりだったのである。その点においてはさすがにドッグトレーナーらしい読みといえる。ところが、その後の行為は全くドッグトレーナーらしからぬものだった。ほんとうはこんな手は使いたくないのだがと言いながら、私に痛い思いをさせたり、私の躰の上に覆いかぶさり、順位が上なのはどっちなんだと脅迫したりした。だから私は餌やり女の兄が大嫌いになった。順位も何もあったものではない。犬なら誰しも順位という概念を持っていると、人間は大きな勘違いをしているようである。結局、私は餌やり女の兄の前では見事な「おすわり」をするようになり、得意の吠えることさえも自粛するようになった。だがそれは餌やり女の兄が単に恐ろしいからであって、けっしてあいつの順位が上だとか、ましてやあいつを尊敬しているからではない。むしろ軽蔑している。
私の必死の抵抗も虚しく、私は「おすわり」に続いて「おて」も覚えてしまった。それは餌やり女の兄とは関係のないことがきっかけであった。モネがやってきたからである。モネは人間から見て実に標準的な犬らしい犬である。ほめられただけで大喜びするし、「おて」もすぐに覚えた。「おて」と言われる前に既に前足を出すほどである。モネは超自発的従属主体なのである。だから私の何倍も人間に可愛がられる。「おて」をするたびに旨そうなものをたくさんもらっていやがる。残念ながら私には、他の犬が旨そうなものをもらっているのに黙って我慢しているほどの根性はなかった。だから私もつられて渋々「おて」をするようになったのである。
ここは素直に敗北を認めることとしよう。私は従属主体化のシステム、身体の標準化システムの前に敗れたのである。しかし、全面的に、無意識に、システムに組み込まれたわけではないことだけは明記しておきたい。その証しとして、私は「おて」をするときには必ず鼻に皺を寄せ、歯をむき出しにし、威嚇の唸り声を出す。これがかつてのレジスタンスとしての私のなごりなのである。
- 著者近影:「おて」と同時に鼻に皺を寄せ、歯をむき出しにして威嚇の唸り声を出す私
コトラ8:生の権力
人間は言語だの論理だのというものを手に入れた上に必ず死が訪れることを知ったのだから、死に方というものをもう少し具体的に考えたらどうなの?と私は云ったのだ。それなのに、自ら死に向かうなんてもってのほか、なんて脊髄反射的に云うのは思考停止であって、それこそ犬のレベルだっていうことに、まだ気づかないかい? 短絡的だよ。自分の思いついたことはまず無条件で正しいと思ってしまい、全く自分を疑わない。自分の思いつきや意見なんてものは、よくよく思い出してみればそのほとんどが誰かの受け売りに過ぎないし、時や場所が変わればその是非も変わる。
まあいいだろう。「吾輩は猫である」の主題は自殺肯定論だ、「銀河鉄道の夜」の主題は他人の犠牲になって死ぬことの美しさだ、とか書くと少なからず文句がくる。もちろんそれは私のひとつの解釈に過ぎない。存在するのは解釈だけなのである(私はニャーチェはあまり好きではないが、この点については賛同する)。もちろん作者がこれらの小説を書くにあたって、さーて「死」についてでも書いてみようかしらん、なーんてかしこまったとは思えない。だって、どちらの作者も自殺したでもなく他人の犠牲になったでもなく、ちゃんと病気で死んでいる。いいかい、小説に主題なんか最初からないのだよ。
文芸にあるのは表現だけだ、と云ったのは龍ちゃんだった(昔の)。今私が書いている文章なんか、主題はおろか、何の表現ですらもない。ただのインクのしみ、いや失礼、ただのドットの集まりだよ。それが、何か文字に見えたり、文章に見えたり、文章の意味が見えたり、ましてやそこに深淵なテーマを感じたとしたら、それは全くもって君の方に責任がある。君の問題なんだ。私には関係ない。
まだ分からないかなあ。もう10年以上前からナラティブなんだよ。ナラターと作者は違うんだ。
前置きが長くなったが、本題に移ろう。前回は健康至上主義について書いたが、最近、ハーモニーという小説が亜米利加でたいへん評判になったそうだ。私は常日頃、友人のミシェル・ワンコーから、「生の権力」という話をよく聞いていた。これは近代社会における権力というものは、支配者とか独裁者といったような分かりやすい形ではなく、社会システムそのものが権力になるという話である。そしてワンコーがいうには、その管理システムは生の向上、すなわち健康を目指すのだという。
ハーモニーは全くこの「生の権力」を下敷きにしており(であるからその説明がやや冗長ではあるものの)、その生の向上を目指すシステムが極端に具現化された未来が舞台だ。徹底的な健康管理で「もはや死因は事故死と老衰しかない」という設定だが、これだけ健康管理システムが発達していればたとえそれが「老衰」にみえても、何かの病気としてその死因が突き止められるはずである。「老衰」は今ほど診断が発達していないか、あるいは診断する必要のない風潮の時代における漠然とした概念であり、すでに「老衰」の死語化は始まっている。ただ、細かいことは看過して、単に健康至上主義批判小説として読めば痛快な作品ではある。長編としてはこれが遺作となったようだが、作者はまだまだ書きたいアイデアがあったことであろう。目前に迫る死と直面していた作者のことを考えると、単に健康至上主義批判として読んでいいのかどうか躊躇はするのだが、存在するのは解釈だけで、ナラターと作者は別で、作品は作者のものではなくて読者のものなのだ。
人間はたいへんだなあ。私は健康も死も考えずにただ食べることを考えていればいい、と云ったらワンコーに、「お前も知らぬ間に健康管理されいるのだぞ」と云われてびっくりした。そういえば死にかけたはずの私が今も生きているのはどうしてだろう。やはり私もこの得体のしれないシステムに組み込まれているのだろうか。どおりで、ただ自由に生きようとしているだけなのに、壁にぶち当たってばかりだ。
- 著者近影:自分もシステムに組み込まれていることを知り、驚いて教授に確認する著者。著者は滅多なことでは教授に近寄らないので、その驚きがよっぽどであったことがお分かりだろう。モネはこの問題について全く関心がないようである。
- 教授御尊顔
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