コトラ7:最後はどう死ねと?
第4回で「吾輩は猫である」の猫の主人による自死肯定論の話をした。聞くところによるとその言い分は、人間は死ぬということが分かっているのだから、どうせ死ぬのならどう死ぬかが問題だ、ということらしい。だが、自分の死に方について真剣に考えている人間など、私の周りにはさっぱり見当たらない。
私は犬だからいいのだ。犬だから「死」という概念がない。私には過去も未来もない。ただ現在を生きればよい。ひたすら食うことの快楽だけを追い求めて後先考えずに生きることが許されている。ところが人間ときたら、自分が必ず死ぬことを知っているくせに、口ばかり偉そうなことを云って、結局私と同じように、いや、むしろ私よりも必死に生にしがみついている。
人間の言語と論理の世界でどうやって死ぬのが良いのかを考え始めたら、須原一秀のように(参照)自死が一番いいのだという意見が出てくるのも当然である。しかし、猫の主人による「将来は死因のほとんどが自死になる」という予言は全く外れ、逆に現代人は故意に死から目を背けるようになってしまった。
循環器の医者は虚血性心疾患をいかに予防するか騒ぎ、脳神経の医者は脳卒中をいかに予防するか声高に叫ぶ。癌の医者は早期発見が大事です、定期的に検診を受けましょうという。内分泌の医者は糖尿病は万病の元ですといって奮闘する。それぞれの病気の専門家がそれぞれの病気について予防予防と騒ぎ、手遅れにならないうちに病院を受診しろという。
それではいったい人間は、最後はどのように死ぬのをよしとしているのだろうか。とかく死は悲しむべきもの、防ぐものとばかりされ、死は必ず訪れるものでありながら、どのような原因で死ぬのが理想的なのかというコンセンサスが人間の間には全く存在しないように見受けられる。
私は一度死にかけたことがある。台所で発見した食料を人間に取り押さえられる前に完食しようとして慌てたため、包装ごとすべて飲み込んでしまった。長いビニールが紐状となって私の腸内に留まり、私は意識不明となって何日間も点滴だけで過ごした。医者は残念だが死ぬでしょうと云ったらしい。医者の言葉に反してどういうわけか私は今も生きているが、点滴の針が入っていた前足がひどく化膿し、その傷跡は未だに癒えず、痛みも取れない。
もちろん私は何も覚えていないし、どうして前足が痛いのかも分からない。凝りてもいないので、今日も人目を盗んでは台所をうろついて食べ物を探している。どうやって死ぬかなど考えない。死ぬときは知らないうちに何かの原因で死ぬ。因果関係という概念もないので、その原因なども、どうでもいい。
誰もが死ぬんですよ。そして百年もたてば、たいての人間が、どんなにして死んだかを詮索されはしません。自分のいっとう気にいったやり方で死ぬのが最上ですよ。 ――万延元年のフットボールより
- 著者右前足近影
コトラ6:私の行動規範
私をこの家に連れてきたのは飯やり女である。私はペットショップの檻の中で最後に売れ残ったチワワの子どもだった。なぜ売れ残ったかというと、子犬にありがちな人間に対する愛想というものが全く見受けられなかったからだ。私は呼ばれてもなんら反応を示さないし、なでられると硬直してむしろ少し嫌な表情を浮かべる。もちろん挨拶がわりに人間を舐めるということもしない。なぜなら人間を舐めても美味しくもなんともないからだ。あまりにも無愛想なものだから、飯やリ女は私の耳が聞こえないと勘違いしたらしい。そして同情されてこの家に連れてこられたわけである。
私は今だに呼ばれてもほとんど反応しないし、なでられるのは嫌いである。ほめられても尻尾を振ったりはしない。モネは名前を呼ばれたりほめられたりすると盛んに尻尾を振って愛らしいダンスを踊る。なでられるとうっとりして横たわる。だから人間に可愛がられるのはいつもモネばかりであり、みんな私のことを「犬らしくない」といって毛嫌いする。私にしてみれば、ほめられたりして何が嬉しいのか全く理解できない。ほめられて何が得だろうか。ほめられることで腹が満たされるだろうか。
そろそろお分かりかと思うが、私の行動規範は、どうすれば食べることができるか、その一点だけである。ときどきモネが出すメス特有の臭いに惑わされることはあるものの、脳の99%は「食べること」を考えるために使っている。トイレに行った後も、もしかしたら褒美のドッグフードがもらえるかもしれないので、毎回しつこくアピールする。このとき人間は「よくできたねえ」とか言って私をほめるのだが、そんなことは私にしてみれば時間の浪費に過ぎない。ほめるのなら空に消える言葉などではなく、ぜひとも現物でいただけるとありがたいのである。
- 著者近影:なでられて硬直する私。四肢に力が入っているのがお分かりかと思う。
- なでられると横になり、うっとりとするモネ。なでられてどうして気持ちが良いのか私には理解できない。
コトラ5:名付けと内的性質
私は、研ぎ澄まされた私の感覚によって、おぼろげながらではあるが人間と犬の区別がつくのだということを話した。もちろん犬と犬の区別、人間と人間の区別もつけることができる。それもおぼろげなのかもしれないが。
どうも人間は認めたくはないようだが、人間が考えている人間特有の理性などというものは幻に過ぎないのではないか。人間も犬と同じ動物であり、きっと理性などではなく感覚的に区別を行っているに違いない。ところが人間は言葉を持っているから、その後の過程で言葉でしか物を考えられなくなっている。可哀相なことに人間の世界は言葉でできている。
第3回で人間の言葉世界における区別について語ると予告したので、今回はそれをやろう。
言葉を発した途端にそれは区別だ。私、といえばお前じゃないということだ。男、といえば女じゃないということだ。歩く、といえば、走るみたいに早くないということだ。もっとも、海を泳ぐのじゃないとか、電車で移動するんじゃないとか、区別の対象はいろいろ変化するけれど。
そこから始めるとかなり話がこみいるので、人間の言葉世界における「ある対象」の区別について語ろう。友人のウィトゲンシュタワンに聞いた話だが、その昔、維納に、言葉世界の限界に言葉で挑んだ人間がいて、そいつがなかなか面白いことを書いたのだそうだ。
論考2-0123 対象を捉えるために、たしかに私はその外的な性質を捉える必要はない。しかし、その内的な性質のすべてを捉えなければならない。
私は白黒のブチで、モネはほとんど黒である。私は内向的でモネは外交的である。性質といえばそういうのが頭に浮かぶ。ところが彼は、それを「外的」性質と呼んで、そんなことはどうでもいいのだという。なぜか。それは、私とモネは、「色(模様)を持つ」、「性格を持つ」という点では同じだからだ。そして彼は、その「色(模様)を持つ」、「性格を持つ」の方を「内的」性質と呼ぶ。そういわれてみると、どうもこっちの方が本質っぽくないか。こう考えていくと、私とモネの「内的性質(論理形式)の違い」を見出すことは極めて困難だ。
論考2-0233 同じ論理形式をもつ2つの対象は、それらの外的性質を除けば、ただそれらが別物であるということによってのみ、互いに区別される。
つまり、私とモネの違いは、私とモネは別の存在だということ、それ自体によってのみ区別されるのだ。
では、別だということを、人間はどう表現すればいいのか。それは、こいつはこいつで、あいつはあいつだ、とか言うしかないだろう。そして、こいつやあいつだらけになっちゃ混乱するので、コトラとかモネとかいう「名前」を付けなきゃならなくなるのだ。全く人間は効率が悪くて面倒くさいことをする。
- 著者とモネ:著者とモネの違いは、ただ著者とモネは別の存在だということ、それ自体によってのみ区別されるのだ。
コトラ4:「吾輩は猫である」について
これって「吾輩は猫である」のパクリなんでしょ?と、「吾輩は猫である」を読んだことのない人から言われた。読んだことがないのだからしょうがないことかもしれないが、失礼な話である。いや、読んだこともないくせに軽々しくそんなことを言うのはたいへん失礼なことだ、ともいえる。
私は言語を持たないので、もちろん「吾輩は猫である」を読んだことはない。そもそも読めないのだから仕方ない。伝え聞いたところによると、あれは擬人化された猫の視点で暇そうな知識人たちのくだらない会話がだらだらと描かれた物語らしい。語り部であるところの猫は、なぜか人間の言語はもちろんのこと、人間の持つ概念までをも最初から完璧に理解できるという、実に都合のいい安易な設定である。
言語を持たない猫が人間の考え及ぶような過程で思考をしたり、その結果としての行動に及んだりするはずはないのである。もし本当に猫の視点で書きたいのならば、全く言語の存在しない猫の頭の中を言語化するという、とてつもなく無謀な試みに挑まなければならないのである。本稿も、私の頭の中の言語ではない何かを、翻訳者が四苦八苦して人間の言葉に翻訳している。そういう意味では、むしろ本稿は「吾輩は猫である」に対するアンチテーゼである。ところが、残念ながら翻訳者は凡人であるから、この壮大な試みは結局成功しているとはいえない。成功するはずなどないのである。
だが、そもそも人間は自分の脳内の言語化される以前の何者かを表象化することで、文学なり絵画なり音楽なりを創造しているのだから、言語の無い犬や猫の脳内を言語化するという試みが全く不可能であるという証拠はない。しかし、安部公房、レムなどの偉大な文学者がいない今、そんな芸当ができる可能性を持った作家は日本では円城塔ぐらいではないだろうか。ひょっとすると将来、芥川賞はまた間違いを犯した、円城塔に賞を与えなかったことだ、と言われる日が来るかもしれない(追記:その後、彼は芥川賞を受賞した。おそらく審査委員の何名かがこのブログの読者であったに違いない)。
「吾輩は猫である」は唐突とも思える展開で最後に「自死肯定論」が登場し、猫がそれを実践して突然終わる。正確には自死ではないが、ソクラテスの刑死は自死であるという須原一秀の意見(参照)に従えば、最後は自死であるといっても過言ではなかろう。もちろん猫に(もちろん犬にも)自死という概念は全く存在しない。作者もさすがにそこは配慮したのか、自死肯定論は人間であるところの猫の主人に語らせている。しかし、それを実践させられたのは主人ではなく猫であった。私とは異種生物ではあるが同情の念を禁じ得ない。
わずかではあるが、前回の予告に興味と心配を示してくれた読者がわずかながらいた。全く異なる内容になってしまい、たいへん申し訳ないことをしたが、もともと犬には方向性も糞もないのでご勘弁いただきたい。いや、糞はあるな。
- 著者近影:人間の言葉に聞き入るが言語で理解するわけではない私
コトラ3:イヌデア
私は犬である、らしい。ところが「犬」の意味はよく分からない。人間は私を見たらまず間違いなく犬だという。牛のような模様なのに私を見て牛だという人間はいない。近所を散歩している白いのも黒いのも、小さいのも大きいのも、痩せているのもずんぐりしているのも、人間は犬を見れば犬だという。いったい人間は何をもってして犬を犬だと判断しているのだろう。というのが前回の私の疑問であった。
希臘の哲学者プラワンによると、人間は犬のイデア――すなわちイヌデアというものの存在を考えたそうだ。イヌデアとは犬の理想的な雛形とでもいうべきものであり、それは人間の(不完全な感覚ではなく)理性によってのみとらえることができるという。だが、普通の人間が有している理性がどれほどのものか、たかが知れているではないか。なるほど私は人間のいう理性などというものをこれっぽっちも持ち合わせていない。その代わり、嗅覚をはじめとする感覚については人間よりもはるかに優っている。したがって、もしイヌデアというものが本当にあるとするならば、理性のないそこら辺の人間よりも、私のほうがよほどイヌデアに近づくことができるのである。
犬は自分が家族の一員だと思っている、と人間は考えるらしい。言い換えれば、犬と人間の見分けに関して犬は無能だと、人間は思い込んでいる。まったく失礼な話である。そのうえ人間は、自分は完璧に見分けができていると勘違いしている。見分けがついていないのは実は人間のほうなのに。その証拠に、なぜあなたが人間で、私が犬なのか、人間は誰ひとり納得のいく説明ができないでいる。
私はほんとうは犬という人間の概念に過ぎないものについて語りたくはないのだが、読者は人間だと聞いているので仕方なく犬について述べている。したがって、人間と犬の区別という問題についても、ほんとうは私にとってどうでもいいことだ。どうでもいいことではあるが、私はおぼろげながら、その区別をつけることはできる。少なくとも人間よりは明確に区別することができる。それを可能にしているのは、臭い、吐息、尻尾の振動などに対する人間よりよほど優れた私の感覚である。私の感覚は研ぎ澄まされている。これほど研ぎ澄まされた感覚をもちながらも、その区別がおぼろげに過ぎないということを自覚している点においても、自分が完璧だと思い込んでいる人間より、よほど私のほうが優っているのである。
次回は人間の言語世界における区別というものについて、人間からみたら犬である私が嫌々教えてやろう。
- 著者近影:思索にふける著者
- 教授御尊顔
- @suemewebさんをフォロー
- サイト内検索
- Googleサイト内検索
-
- 懐コンテンツ
- 喉頭鏡素振りのススメ
- カテゴリ一覧
- 過去ログ
-
- 2022年
- 2021年
- 2020年
- 2019年
- 2018年
- 2017年
- 2016年
- 2015年
- 2014年
- 2013年
- 2012年
- 2011年
- 2010年
- 2009年
- 2008年
- 2007年
- 2006年
- 2005年
- 2004年
- 2003年
- 2002年
- 2001年
- 2000年
- 1995年
- mobile
-
- PR