第三の都市に捧げる
ある年の八月、私がその国に向かったのは、ある国際的な学術会議に出席するためだった。行きは全くの一人旅で、機内での約11時間をどう過ごそうかと途方に暮れていた。
右隣はまじめそうな若い女性だった。落ち込んで不安を隠せない表情から、彼女はきっと長い間日本を離れるのだろうなという予感がした。飛行機が安定飛行に入ると、彼女は(おそらく親しい人々からの別れや励ましの)手紙を読みだした。彼女の目から、ついに大粒の涙が溢れ出して止まらなくなった。とても話しかけられる雰囲気ではなかった。私は飲めないアルコールを無理やり飲んでなるべく睡眠で時間をつぶす努力をした。
入国用のカードを書くときに、やっと彼女が話しかけてきた。職業欄にはなんと書けばいいのか、自分は無職だけど英語で無職ってなんと書けばいいのかと訊かれた。私はDoctorと書いたのだけれど、無職の場合はなんと書けばいいのか自信がなかったので、アシスタントパーサーにでも聞いてみるよと言ったら、彼女はそれなら自分で聞いてみますと気丈に答えた。
彼女は無職といったけれども、私はどうも同業者の匂いがしてならなかった。なんの根拠もなかったのだけれど、なんとなくそういう雰囲気を感じた。思い切って、何をしに行くのですかと訊いてみたら、ホームステイをしながら英語を学ぶということだった。私の質問に答え終わると、彼女はすぐに踵を返して「先生は?」と聞き返してきた。この「先生」があまりにも自然だったので、このとき私は彼女がナースであることを確信した。きっと私がカードにDoctorと書いたのを見ていたのだろうが、普通の人がそれだけでいきなり「先生」と呼んでくるとは考えにくい。それに、これから向かっている国は語学を学びに留学するナースがとても多いことで有名だ。
飛行機はその国で一番大きな都市の空港に着いた。彼女はここで何年間か英語を学ぶそうである。私はこれから国内線に乗り継いで、この国の第三の都市に向かわなければいけないので、彼女とはここでお別れであった。
第三の都市の空港に着いた。行くことが決定するまで名前すら知らなかった都市である。でも空港は日本の若者たちで溢れていた。彼らの目的はスキーやスノーボードである。ウインタースポーツをやる若者たちの間では、この第三の都市は結構有名なところらしかった。日本が夏でもここは冬、しかも比較的安価でウインタースポーツが楽しめるそうだ。
一人旅の私は、とりあえず街を散策すること以外に時間を消費する方法が思い浮かばなかった。
こじんまりとしたきれいな街だった。市内をエイヴォン川が流れ、そろそろ桜が咲きそうな雰囲気だった。
当時、日本はまだインターネット後進国だった。だからこんな小さな街でも、いたるところに格安のインターネットカフェがあるのにびっくりした。
そのうちの何件かは日本語を使うこともできた。私はそこから、海外にいることなどおくびにも出さず、日本にいるときと同じように、自分のホームページに設置してあるCGIの日記を更新したり、レンタル掲示板に返事を書いたりした。とても不思議な気分だった。
この街を象徴するのはこの大聖堂だった。そびえ立つ大聖堂とその前に広がる広場、それがまごうことなきこの街の顔である。私はこの大聖堂の上まで駆け上りたくなった。
階段を駆け上がった。時差ぼけは関係なかった。一人旅の開放感と、この街の予想外の清々しさに私の心は踊っていた。
一番上までくると、百三十三段の階段を上った証明書が壁に打ち付けられてあった。「おめでとう!」とその証明書看板は言った。
大聖堂の上から見る街並みはミニチュアのようだった。この国の風を感じながら、今晩ひとりで何を食べようかと考えていた。ホテルの近くにバーガーキングがあったから、あそこですまそうかなあとか。
*
そろそろ戻ろうと振り返ると、自分が今上がってきた細い螺旋階段が目に入った。
私は急にめまいを感じてふらついた。
目の前が真っ暗になるような気がした。
いや、実際に真っ暗になったのだ。
私はその階段を真っ逆さまに落ちていった。
気がつくと私はたくさんの瓦礫に囲まれて身動きがとれなかった。
まだ駆け上ったばかりで息が切れていたので、思いっきり空気を吸いたかった。
でも何かが私の胸を圧迫して、私の肺は私が要求する量の空気を吸い込めないでいた。
真っ暗闇の中から、かすかな息遣いが聞こえた。
若い女性の声だった。
「先生」と言ってるように聞こえた。
その声は、あの飛行機で隣だった彼女の声だった。
でも彼女であるはずがない。
彼女はここではなく第一の都市にいるはずだ。
「先生」と言っているように聞こえた声は、
やがて浅くて早い息遣いに変わり、
それはだんだんと弱くなり、
いつの間にか聞こえなくなっていた。
ただ暗闇だけが私を支配していた。
*
私が学術会議に参加したときに訪れたタウンホールやコンベンションセンターも、テレビを見る限りかなり倒壊損傷しているようである。
私を祝福してくれた大聖堂の証明書看板は瓦礫の中に消えていることだろう。
誰か知人が被災したわけではない。だけど、実際に訪れたことのある思い出の場所だ。被災者と同じ志の人に会ったこともある。また、被災者の中には6年間過ごした北陸の方がたくさんおられた。
日本での仕事を犠牲にしてまで、海外で役に立てる人間になりたい、そういう思いでこの国にやってきた人たちの息遣いが瓦礫の中から聞こえる。母国での安穏とした生活を選んだ私は、しばらくネットに何も書く気がしなかった。
気持ちの整理をつけるために自分向けに本エントリーを書いた。しょせん偽善にも思えるし、犠牲者や遺族の心境を察するに、公開するのは気が進まないが、備忘録として残しておく。
しろくまタイムズスクエア 雪の練習生
皆さんこんにちは。スイーツブログとは何かを真面目に考えているスミルノフ教授です。前回はスイーツブログの名にふさわしいエントリーだったと先生は自負しています。皆さんも太るだのダイエットしたいだの概ねスイーツブログらしいコメントをしてくれました。それでよろしい。しかし、柳月のどらやきの下には、「喜嶋先生の静かな世界」の他にもう一冊、「雪の練習生」が隠れていたことについて、誰も反応してくれなかったのは、先生としてはちょっと寂しい。そこで今日は、もしも「札幌タイムズスクエア」に例えるとしたならば、それは間違いなく「しろくまタイムズスクエア」であろう「雪の練習生」について論じておこうと思います。
だがしかし、先生は書評がすこぶる苦手です。だいいち小学生の頃から読書感想文が大嫌いでした。先生はその本を読んじゃうと、なぜだかその本のことはもう書けなくなってしまうのです。だから宿題とかでどうしても読書感想文を書かなきゃならないときは、その本を読まずに、題名と帯書だけを頼りにもっともらしいことを書きました。たとえば、高木彬光の「邪馬台国の秘密 (1973年)」は歴史書だと思って、「著者は主流である畿内説に異を唱え、推理作家らしいその洞察力で次々と証拠をあげながら九州説へと導いていく様は圧巻であった」などと、さも読んだかのように書いたところ、満点をもらいました。「邪馬台国の秘密」が実は推理小説であり、その後盗作騒ぎになったことを先生が知ったのはずっと後年のことでした。
しかも先生は「雪の練習生」を読んだあと、バカミスを3冊ほど読んでしまっているので、自分がホッキョクグマであった頃の記憶や感覚がすでに消えかかっています。でも、なんとかして今のうちに書き留めておくわ。今書き留めておかないと、もう一生書くチャンスなんてないかもしれないもの。
第一部、祖母の退化論。自伝を書き始めるのはトスカの母だ。だいたいホッキョクグマが自伝を書くという状況をここで受け入れることができなければこの小説はそこで終わりである。そこで終わりにしてもいいのに。もうわかんない奴はみんな置いてけぼりにしちゃえばいいのに。だけど多和田さんにそんな意地悪はできないのである。多和田さんは親切だ。多和田さんの親切に我々は報いなければならない。なぜホッキョクグマが自伝を書くのか? 書くとしたら何語で書くのか? ホッキョクグマ語? だがみんなはトスカの母の母国語はロシア語だという。だけど彼女はドイツ語で書く。母国語ってなに? 母国語じゃないドイツ語で書くとどうなるの? それは多和田さんの永遠のテーマである。
第二部、死の接吻。せっかくホッキョクグマが自伝を書くことを受け入れ、ここまでついてきた読者を多和田さんはいったん突き放す。語り部はホッキョクグマ使いの人間、ウルズラに交代する。どうして人間が伝記を書くのだ、伝記を書くのはホッキョクグマに決まってるだろ、と腹をたてることができれば、あなたがすでにこの小説のとりこになっている証拠である。でもそんな怒りはもちろん無用である。ウルズラはやがてトスカに飲み込まれていく。ウルズラの書くホッキョクグマのトスカの伝記は、ホッキョクグマのトスカが書くウルズラの自伝に昇華していく。見事だ。第二部が、本作最大の見せ場だと思う。
YouTube - Ursela Bottcher opname 1973 Circus Paul Richard
第三部、北極を想う日。読者の多くはトスカの子クヌートが主人公の第三部がお目当てだろう。だが、クヌートと髭の飼育員の愛情物語を期待していたクヌート・ファンはたぶん裏切られる。少なくともクヌート・ファンのひとりであった私は――そしてピース・ファンでもあった私は(参照)、完全に突き放された。クヌート・ファンであること自体が罪深きことではないかと苛まれる。クヌートに苦悩がなければないほど私たちは罪深い。地球温暖化防止のシンボルとなったクヌートの姿は、様々な思惑に政治利用される世界中の少数民族にも重なっていく(例えばシドニー五輪の先住民族とか)。クヌートは安楽死させられるべきだったろうか(参照)。ホッキョクグマは南下し、ヒグマとの交雑が進んでいる。これは私たちが是が非でも阻止すべき現象なのだろうか。
雪に想いを寄せるクヌートの姿で物語は終わる。祖国とはなんだろう。ソ連、西ドイツ、カナダ、東ドイツと渡り歩いた祖母、東ドイツで活躍した母、そしてベルリンで生まれ育ったクヌート、ホッキョクを知らないホッキョクグマたちにとってホッキョクとはなにか。第一部でおせっかいなほど親切だと思った多和田さんは、第三部ではすごく意地悪になって、大きな問を私たちに投げかけて書き終える。
日本語、ドイツ語、ホッキョクグマ語で考える多和田さん、最初から翻訳を意識した日本語でノーベル賞を狙う作家よりも先にノーベル賞をもらえたらいいですね。
次回のスイーツもお楽しみね!
どらやき(柳月) 喜嶋先生の静かな世界
皆さん、こんにちは。毎度おなじみ真面目なスイーツブログをやっておりますスミルノフ教授です、なんて書き出しもそろそろ飽きてきちゃったなあ。
本日はこの写真の商品についてのエントリーですけど……おや、読者の方から手紙が届いているようです。
スミルノフ先生、いつもスイーツブログを楽しく読ませていただいてます。僕はうだつの上がらない町医者をやっている者です。でも、これでも昔は先生のような立派な研究者を目指していたことがあるんですよ。
最近、先生がおすすめの柳月のどらやきを食べながら、「喜嶋先生の静かな世界」という本を読みました。すると、昔の研究生活の思い出がまざまざとよみがえってきてしまい、どうしても誰かに話したくて我慢できなくなりました。そこで、敬愛するスミルノフ先生ならば聞いていただけるのではないかと思い、筆をとったしだいです。
僕が初めて研究というものに携わったのは、アメリカのとある臨床医学教室です。アメリカのボスは、ある特殊なin vivoの実験系を確立した人でした。彼独特の個性的な実験系なので、少し条件を変えたり、使う薬物をとっかえひっかえするだけで、オートマチックにいくつも論文ができあがる仕掛けでした。僕はそのうちのいくつかを、言われるがままにこなせばいいだけでした。そのときは研究ってそういうものだと思ってました。
僕は英語が苦手だったので、研究のプレゼンテーションに関してはボスの厳しい特訓をうけました。アメリカ人というのはほんとに大袈裟で気取ったやつらばかりで、ときには後ろ手を組んでステージの上を行ったり来たり歩き回りながら、大きな手振り身振りで自分がいかにすごいことをしているかアピールします。みんながスティーブ・ジョブズみたいなものです。僕も聴衆の注意をひく決め台詞や、言葉の一言一句に対応する目線の位置、表情、手振り身振りまで実に細かく指導されました。もちろん小学生のころからそういうプレゼンテーションの訓練を受けている彼らには敵うはずもありませんでしたけれど。
そうやって積極的に自分をアピールし、莫大な研究費をゲットし、人件費も惜しまず投資し、力づくでたくさん成果をあげ、そしてまた研究費をゲットする、みんながみんなそうとはいいませんが、僕が見聞きした限りではそれがアメリカの研究のやり方という印象でした。僕はボスのおかげで、アメリカのわりと有名な雑誌にいくつかの論文を載せることができました。
そのとき身につけた研究方法や発表方法は、帰国してからずいぶん役には立ちました。普通の臨床医学の学会では、もう恐れるものは何もなくなっていました。でもそんなことが大事なのだろうか。大事なのは大事なんだろうけれど、どこかに本質的なことを忘れて置いてきてしまっている。そんな後ろめたさがずっとつきまといました。
もちろん、そんなことはみんな気づいているのでしょう。気づいていながら、うまくやっていく、それが大人というものです。もしも僕の先輩たちがこの文章を読んだら、あいつはあいかわらず子どもだと笑い飛ばすことでしょう。
だけど、「喜嶋先生の静かな世界」の中の喜嶋先生の言葉に、僕はやっぱりそうだったのかと感動を抑えずにいられませんでした。語り部である橋場くんが学会発表の練習をしたあと、原稿の棒読みになってしまったことを反省するシーンがあるのですが、喜嶋先生は「棒読みで構わない、言葉は、内容がすべてであり、あがっていようが、読み間違えようが、論文の価値にはなんら関係ない」と言い切ったのです。
「喜嶋先生の静かな世界」には到底及びませんが、僕もそれにやや近いシチュエーションに置かれたことがあります。僕はアメリカでの研究生活を終えたあと、帰国して普通に臨床医をしていました。そのまま普通の臨床医になるんだろうと思いながらぼうっとしていたとき、高校の先輩でもあったT教授から生理学教室に来ないかと誘われました。そこで「喜嶋先生の静かな世界」のような、夢のような数年間を過ごしました。臨床医学の学会では味わえない、純粋な学問を追求する人々の姿がそこにはありました。
橋場くんの言うように、これはすごく重要なことなのですが、自分のやっている研究がいま世界でどのへんに位置しているのか、そして自分は何を目指しいったい何合目あたりまで登ってきているのか、そういう自分の立ち位置が分かっているということは、研究者にとって最も大切なことのひとつです。僕の垣間見た生理学の世界では、それが分かっていない人は学会ですぐに見抜かれて、たちまちボコボコにされていました。ひどいときには、座長と会場の人々だけで白熱した議論が起こり、発表者が発言しようとすると「君は何も分かっていないから黙っていなさい」と怒られて口を挟むことが許されなかったことさえありました。
大勢が議論に参加していても、ほんとうに理解して議論しているのは数人だけということもありました。もちろんそんなことは僕には分かりません。僕には他の人全員がとても頭の良い人に見えました。そばにいたT教授が、今のをほんとうに理解したのは彼と彼だけだよ、と教えてくれたので、そうなんだと思っただけです。だけど、議論を聞いていればその人がどこまで理解できているのかがさらけ出されてしまうということは何となく分かるようになりました。
僕も有名な研究者たちを前に発表することが何度かありました。臨床医学の学会で発表するときとは比べ物にならないぐらい緊張しました。アメリカでもこんなに緊張したことはありませんでした。あるイオンチャネルの発見者として世界的に有名なN先生に質問されたことがありました。それは、はたから見ればごく普通の単純な質問でしたが、僕はその質問に愕然としました。僕はそのときすでに、その発表内容の次の段階である、僕の研究テーマの核心に迫る実験を進めていたのですが、まだそのことは誰にも内緒でした。でもN先生の質問は、まさにその核心に迫る実験の結果を問う質問だったのです。僕はN先生がすべてを理解していることに驚き、その場で打ち震えました。ごくごく一般的な答えを装って、けれどもすべてを理解してしまったN先生だけには分かるように答えたつもりでしたが、その答えを聞いてN先生は「ほほう」と感心し、興味を示されたようでした。あとでT教授が寄ってきて、「ね、N先生ってすごいだろ」とおっしゃいました。
常日頃T教授は、「あせって中途半端な論文を書いてはいけない、いつまで『武士は食わねど高楊枝』でいられるかだ」とおっしゃっていました。ちょうどその頃、生命科学の分野では、ひとつの実験系だけで論文を書いてもレベルの高い雑誌に載せることは難しくなっていました。ひとつの仮説を証明するためには、ひとつの生理学的手法だけでは不十分で、薬理学、生化学、遺伝子工学など、様々な手法を用いて多角的にアプローチしないと認められないという潮流が来ていました。
だから僕は論文を完成させるのにずいぶん時間がかかりました。そして論文自体もかなり枚数の多いものになってしまいました。完成稿をある雑誌に投稿しても、門前払いで不採用になったり、審査員から無理難題をつきつけられたりし、そのつど書き直してまた投稿する、といったことを繰り返しました。
結果的にその論文は欧州の中堅雑誌に載りました。でも臨床医学の諸先輩方にはなかなか理解を得られませんでした。曰く、そんな長い論文をひとつ書くよりもいくつかに分けて小出しにした方が論文数を稼げるのに、薬の種類を変えれば同じような論文が何種類も書けるのに、だいたいお前のやった内容はいったい臨床の何の役に立つのか、あいつは基礎医学にいって趣味のようなことをしている、あいつは基礎医学にいって駄目になってしまった、などです。でも僕は個人的には自分の仕事に満足していました。
僕はそのまま生理学の研究者になることも考えましたが、結局は臨床医学の現場に戻りました。基礎医学の世界で食べていくには実績が足りないと思ったからです。もっと若手だったなら、実績が無くてもすばらしいアイデアさえあれば、国や財団などが研究費を出してくれる可能性があります。しかし、四十歳を超えるとそれ相当の実績がなければ自分の研究を推し進めていくことが困難になります。ですから、もしその道で生きていく覚悟のある若手研究者の方がいれば、僕にできる唯一のアドバイスは、若いうちにどんどんアイデアを出し、どんどん補助金や助成金を申請し、どんどん実験をして論文を書いて、そうやって若いうちにどんどん実績を積み上げてくださいということです。
でも実績が足りないなんていうのはただの言い訳です。僕がやめたほんとうの理由は、実力がないことを思い知らされ自覚したこと、もともと飽きっぽくて根性がないこと、もっと楽に生きたかったこと、それだけのことなのです。
僕は臨床医学の分野に戻ってから、ある大学で助教授になりました。でも結局、助教授として栄転した喜嶋先生が四十七歳で大学をやめたように、僕も同じような年齢で大学をやめました。しかし、やめた理由は喜嶋先生とは正反対です。僕がやめたのは、喜嶋先生のように、自分の研究のために、自分の崇高で静かな世界を守るために、ではありません。やっぱり、僕は白日夢のような理想を抱くだけの人間で、それを実現させる実力も根性も合わせ持たない、ただ楽な方に逃げてしまう人間に過ぎなかったというだけのことです。そうして「喜嶋先生の静かな世界」を読みながら、今日もまたいつもの白日夢の世界に逃避し安住している、何の役にも立たない人間なのです。
最後に、長々と駄文を連ね、先生の貴重なお時間をとらせましたことをお詫び申し上げます。先生の益々のご健勝を心から願っておリます。
先生もちょっと読んでみました。「喜嶋先生の静かな世界」は、おそらくまどろみ消去に収録されている「キシマ先生の静かな生活」の長編化ではないかと思われます。前半に橋場くん、喜嶋先生、櫻居さんの三人でスナックに飲みに行くエピソードが挿入されたので、橋場くんが喜嶋先生の家に行って酒が出てきてびっくりするシーンが(これは大事なシーンですけど)ちょっと不自然になったかな、と思いました。先生の誤読でしょうか。それにしても、喜嶋先生と沢村さんはどうなったのか、森博嗣の読者諸氏におかれましては、これを書かずに作家をやめられたら怒りますよね。関係ないけど、キシマ先生とカタカナで書くと、先生は何となく、野矢茂樹の無限論の教室に出てくるタジマ先生を思い出しました。タジマ先生もきっと静かな世界の住人です。あ、次回のスイーツもお楽しみね!
よもぎ餅 大相撲の互助精神
皆さん、こんにちは。毎度おなじみ真面目なスイーツブログをやっておりますスミルノフ教授です。いやー、スイーツブログってその日のおやつの写真をアップしてちゃちゃっと甘いことを書けばいいだけだから、めっちゃ楽ですね。どんどん更新できます。
以下の甘い話は、僕の憶測だけを重ねたものです。
僕が大相撲の「互助精神」を初めて知ったのは1972年大阪場所の大関同士の一戦だった。カド番大関の前の山は琴櫻を土俵際にまで追い詰めた。ところが、前の山がちょっと力を抜いただけで、まるでぶつかり稽古のように琴櫻は土俵中央に転げ落ち、その瞬間にアナウンサーがつい「おかしいぞ!」と叫んでしまった。
「おかいしいぞ!」というのは僕の記憶違いかもしれなくて、それは「んんん?」だったかもしれないし、「おや?」だったかもしれない。あるいはアナウンサーは無言だったかもしれない。だけど、あの一番が終わった瞬間は、大人たちのあいだに何ともいえない重苦しい雰囲気が漂った。それは子どもの僕にもはっきりと分かった。
二人は協会から厳重注意をくらった。きっと、もっと上手くやれと。
それから何となく、それはアイコンタクトや暗黙の了解で行われているのか、星の貸し借りで行われているのか、金銭も絡んでいるのか、仕切っている奴がいるのか、具体的なことは分からなかったけれども、少なくとも互助精神に基づいた星勘定の調整が行われているんだろうと、自然に思うようになった。あれだけの力士がひとつの組織の中にいて何年もやってるんだもの、そうなる方が自然じゃないかってね。
それは、大関という地位を守る(大関互助会)、幕内という地位を守る、幕下とは天国と地獄の差がある十両という地位を守る、それからたいした実績はないんだけど今度親方の娘を嫁にもらって部屋を継ぐことになったんで一回ぐらい優勝して箔をつける、そういうときにたぶん行われるんだろうと勝手に思っていた。
相撲通のあいだでは、現役時代の放駒理事長はガチンコ力士として有名だった。あくまでも憶測だけど。だから2回大関から落ちてること、10勝ルールを使わずに大関に復帰した唯一の力士ということ、弟子の大乃国が皆勤で負け越した唯一の横綱であること、その大乃国は千代の富士の連勝を53でストップさせたことなどは、ガチンコ力士であったことの裏付けとされている。あくまでも憶測だけど。これが本当だとすると、「過去には一切なかったことで」っていうのは、自分のことを言っているのだという推測が成り立つ。
と書くと、千代の富士のことを注射力士って中傷しているように見えちゃうなあ。千代の富士の53連勝には注射も含まれており、ガチの大乃国に負けたってことになってしまう。僕はそんなことはこれっぽっちも言ってないんだよ。もちろん、千代の富士はガチで53連勝しガチで大乃国に負けたって解釈するのが最も普通さ。いや、ガチって言葉が入ってる段階で普通じゃないか。まさか逆に千代の富士の連勝を止めた男として名を上げたくて、大乃国が頼み込んだわけじゃないだろうな。
基本的にはガチンコ精神は、僕の知る限りでは、魁傑(放駒理事長)や先代貴ノ花(藤島)から、放駒部屋の大乃国や、安芸乃島、貴乃花らの藤島勢に伝わっていった。そういうの考えだすと、安芸乃島はガチ力士だからこそ金星が史上最多なんだよっとか、こじつけて裏付けるのが楽しくなってきますよ。
僕は最近ではむしろガチンコの方が多いんじゃないかと油断していた。朝青龍なんかは絶対にガチだと思っていた。だって、星を買ったり借りたりする相手をあんな乱暴にダメ押しするだろうか。僕は皆さんのいう朝青龍の品格の無さの後ろに、むしろ本物のガチンコ精神を見ていたのである。でも結局朝青龍にも八百長の噂はつきまとった。真相は分からない。
逆になんで負けてやらないんだろうとさえ思ったことがある。1993年九州場所の13日目、小錦と曙の一戦だ。小錦は負ければ大関陥落だから、僕は曙は負けてやるものとばかり思っていた。曙は小錦を寄り切り、少しだけ会釈をした。大関陥落が決まった小錦は少しも悪びれずに礼をして土俵を降りた。僕はこのときの二人の胸中を思いやり、どうせ八百長で負けてやるんだろうなどと思ったことを後悔した。二人の兄弟愛みたいなものに感動して涙が浮かんだ。でもまあ、曙は武蔵丸と優勝争いしてたしなあ。いや、失礼だからやめよう。
僕が幕下の相撲も見始めたのは、梅原猛先生が「幕下上位の相撲が一番おもしろいんだよ」と、おっしゃっていたからだ。十両と幕下には待遇面で天国と地獄ほどの差がある。だから幕下力士は天国である十両を目指して本気で戦う。しかも、幕下は基本的に同じ勝ち数が対戦するトーナメント方式だから、星を貸し借りする土壌も生まれにくい。
逆にいえば、十両以上の相撲は馴れ合いだということだ。僕は、幕下上位があんなに必死に関取(十両以上)を目指して頑張っているのに、せっかく幕下上位で好成績を上げても、入れ替わりに十両から落ちてくる力士がいなければ、なかなか上がれないというところがかわいそうだと思っていた。
ところがその十両力士がネットワークを作って、コントロールしていたわけだ。なかなか落ちてこないはずだ。それにしても恵那司ってすごいね。まるで星の貸借勘定奉行だよね。あいつの貸しはそいつに返してもらって俺はそいつからもらっておけば帳尻合うよね?って聞いたら、即座にオッケーですって答えてくれる。もうデータが全部頭に入ってるんだろうか。
今回は明らかに証拠を握られちゃった判然とした八百長だけど、たとえば勝ち越してる力士が千秋楽で7勝7敗の相手に負けてやるとか、負けてやるっていうか、あんまり本気出さないとか、優勝に関係ない大関同士が星勘定合わせるとか(大関互助会)っていうのは、打ち合わせのない暗黙の了解みたいな慣習なのかもしれない(もちろん確固たる八百長かもしれないし、偶然なのかもしれないけど)。そういうグレーゾーンを無気力相撲といってるのかもしれないけれど、放駒理事長は記者会見で「無気力相撲イコール八百長」だと言っちゃったから、まあやっぱり真剣じゃない相撲はけしからんと思ってるとみていいと思う。
そういう意味では、まあ、こんな事態になっちゃったけど、こんな事態になっちゃったときの理事長が八百長大嫌いと思われる放駒だったというのは、ほんのわずかの救いではあるのかもしれない。
再発予防といっても現実は難しいだろうな。
ひとつは、競艇を見習って、場所中は携帯も含めて私物を全部取り上げ、監禁の上で厳重に監視する。ほんと競艇はそうしてんだよ。しかし、賭博の対象ではない大相撲でこれを強要するのは難しいだろうな。裏の世界では賭博の対象みたいだけど。
あとは、身分制度の改革、それと全部ガチを強要するなら、公傷制度を復活させて、せめて年4場所には減らさないとだめだろう。それからもっと発言力と権限のある力士会を組織すること。
まあ昔は、この人はガチだから嫌がられてるとか、そういうの想像するのも含めて面白かったんだけどなあ。みうらじゅんのこれ入ってるよねえ的な意味で。
本場所はしばらく開かれないでしょう。これで僕の、チェコ初の関取(隆の山)実現の夢はまた遠のいたなあ。残念。
次回のスイーツもお楽しみにね!
白花豆どらやき 母のコンピュータ
皆さん、こんにちは。毎度おなじみ真面目なスイーツブログをやっておりますスミルノフ教授です。皆さん、先生がだんだんつらくなってきているのではないか、あるいは、スイーツブログなんていつまで続くんだろうか、などと、いろいろ心配してくださっているようですが、先生は大丈夫です。今日のご紹介は柳月の白花豆どらやきです。いやー、スイーツブログってその日のおやつの写真をアップしてちゃちゃっと適当なこと書けばいいだけだから、めっちゃ楽ですね。どんどん更新できます。
とは言ってみたものの、順調に更新し続けてきたスイーツブログにかなり間を空けてしまった。実はこのどら焼きは賞味期限が1月24日であり、本当は1月24日に食べて1月24日にこのエントリーを書く予定だった。ところが文字通り賞味期限切れもいいとこのエントリーになってしまった。そして写真を見てお分かりのように、つぶれてくずれてしまっている。どうしてそんなことになったのか、その理由を追々のべることにしたのだが、いささか長文になってしまったし、自分で読み返してもただ長いだけの退屈で苦痛な文章だと感じるほどであるから、皆さんが読んでも時間の無駄に終わる可能性が高い。もうほとんど長編小説である。だから、<続きを読む>は興味のある方だけクリックしてください。
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