硝子戸の中
一
硝子戸の中から外を見渡すと、霜除をした芭蕉だの、赤い実の結った梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てるほどのものはほとんど視線に入って来ない。書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうしてまた極めて狭いのである。
その上私は一昨年の暮から気の病でほとんど表へ出ずに、毎日この硝子戸の中にばかり坐っているので、世間の様子はちっとも分らない。心持が悪いから読書もあまりしない。私はただ坐ったり寝たりしてその日その日を送っているだけである。しかし私の頭は時々動く。気分も多少は変る。いくら狭い世界の中でも狭いなりに事件が起って来る。それから小さい私と広い世の中とを隔離しているこの硝子戸の中へ、時々人がメールやコメントを寄こす。それがまた私にとっては思いがけない人で、私の思いがけない事を云ったり為たりする。私は興味に充ちた眼をもってそれらの人に返事を書いたりブログに引用した事さえある。
私はそんなものを少し書きつづけて見ようかと思う。私はそうした種類の文字が、 忙がしい人の眼に、どれほどつまらなく映るだろうかと懸念している。私は電車の中で端末を出して、大きな活字だけに眼を注いでいる読者の前に、私の書くような閑散な文字を列べて画面をうずめて見せるのを恥ずかしいものの一つに考える。これらの人々は火事や、泥棒や、人殺しや、誹謗中傷や、ライフハックや、萌えや、エロや、すべてその日その日の出来事のうちで、自分が重大と思うエントリーか、もしくは自分の神経を相当に刺戟し得る辛辣なツイートのほかには、端末を手に取る必要を認めていないくらい、時間に余裕をもたないのだから。彼らは停留所で電車を待ち合わせる間に、返信メールを打ち、電車に乗っている間に、今起きている社会の変化をツイッターで知って、そうして役所か会社へ行き着くと同時に、自分のパソコンに電源を入れるほど忙がしいのだから。私は今これほど切りつめられた時間しか自由にできない人達の軽蔑を冒して書くのである。
二
ついこの間私はあまり乱雑に取り散らされたメール受信箱がうっとうしくなったので、一人でぽつぽつそこいらを片づけ始めた。その時メールの整理をするため、好い加減に積み重ねてあるスパムや広告や更新通知のメールを、ひとつずつ改めて行くと、思いがけなく小次郎さんという痲酔科医が寄こしたメールがあった。さっそく封を解いて中を検べたら、サンダルの写真が二枚入っていた。それには「スギュラ」を模した付箋が貼られていたので、私はまた吃驚した。
突然のメールで失礼します。セイタカシギの住む町の痲酔科医です。教授のブログに感銘し、更新をいつも楽しみにしています。いきなりですが、このたび手術室用に「黒い」クロックスを買 ってしまいました。名前を書こうとしたら黒くて書けず、オペナースからジビッツを勧められましたが、教授の隠れ弟子として心が許しませんでした。悩む中、教授の「スギュラ」の話を思い出し、手当たり次第にシールをさがしました。残念ながら自分の名前にあうものがなく、苦肉の策で「マスキュラックス」を切り貼りした、「マスイ」シールをつくりました。これが、PRADA風で評判よく、ぜひ教授に見ていただきたいと、勝手に写真を添付したメールを送ります。ぶしつけで、ほんとにたいへん失礼しました。
小次郎
S浦君に初めて会ったのは明治百三十五年の晩秋であった。私の医局で入局説明会というものが催されたのだが、参加を希望する学生は誰一人見当たらなかった。ローリーは、これでは説明会も何もあったものではないと云い、私の医局に入局する志などひとつも持ち合わせていなかったS浦君を無理やり連れてきたのである。
その時私はローリーによってS浦君に紹介された。二人が内灘の、とある小さな居酒屋に落ち合って、しかも、まだ互に名乗り換した事がないので、 ローリーの力を藉りて、どうか何分と頭を下げたのは、考えると今もって妙な気がする。その時ローリーはBボーイのような格好をしていた。大袈裟に手を前へ出して、S浦君、これがスミルノフ先生と云ったが、全く云い切らない先に、また一本の手を相手の方へ寄せて、先生、これがS浦君と、公平に双方を等分に引き合せた。私はローリーの態度が、いかにも、厳で、一種重要の気に充ちた形式を具えているのに、尠からず驚かされた。S浦君は私の横に座って、胡座のままで小さな会釈をしたが、私と目を合わせようとはしなかった。私は笑うと云わんよりはむしろ矛盾の淋しみを感じた。幽霊の媒妁で、結婚の儀式を行ったら、こんな心持ではあるまいかと、座りながら考えた。
三
それから二三ヶ月経った。たしか翌年の春の初の頃と記憶しているが、S浦君が私の医局に入局することを突然表明したと耳にした。初めの頃のS浦君は何の必要があってか知らないけれども、絶えず大道で講演でもするように大きな声を出して得意であった。そうして後輩が来ると、必ず通客めいた粋がりを連発した。それを端で聞いていると、ウィットにもならなければヒューモーにもなっていないのだから、いかにも無理やりに、(しかも大得意に、)半可もしくは四半可を殺風景に怒鳴りつけているとしか思われなかった。
ところがある日、S浦君がマスキュラックスの付箋を上手に切り取って「スギュラ」に加工し、自分の持ち物に貼っているのを見て愉快になった。何をしているのかと尋ねると、S浦君はただ自分の名札を自分の持ち物に貼っているだけですと答えた。
「スギュラ」は君の名前の正しい表記ではないと諭すと、だって先生、読めば僕だとすぐお分かりになるでしょうと云った。私はなるほどこれもまた言文一致の新たな有様かもしれぬと考えた。そしてS浦君にウィットもヒューモーもないと思っていたのはただ私の不見識による所以だったと謝ると、別にウィットだのヒューモーだのと考えているわけではありません、ただ名札を最初から作るのが面倒だからこうしているだけですと答えた。
その後、私とS浦君は一緒に研究をすることとなり、たちまち親しくなってしまった。実験室ではいろいろな事を話した。いや、エロエロな事を話した。S浦君はよく実話ナックルズ、投稿キング、ブブカなどの興味深い書籍を貸してくれた。
四
それから「スギュラ」ことS浦君の名は驚くべき速力を以て旬日を出ないうちに日本全国の庶民の間に広がった。明治百三十七年の初夏、S浦君は日本○○(活字の滲みによって判読不能)科学会で初めて講演をすることとなった。文壇ではまだ無名の存在であるはずのS浦君なのに、その前には黒山の人だかりができた。ねえ、このS浦って「スギュラ」のことじゃない? という声が人垣の彼方此方から聞こえた。
S浦君は生まれて初めて大勢の聴衆を目の前にし、幾分緊張した面持ちを見せたが、滞りなくβ1阻害薬の薬物動態に関する講演を終えてみせた。そのうち、司会のS田先生がβ1阻害薬の痲酔深度への影響に関して議論をやり出した。痲酔深度への影響はS浦君の研究内容と直接の関係はないのだが、大変興味があると見えて、いつまで経ってもやめない。一通り気の利いた発言が出尽くして談話が途切れた頃、S田先生が、スミルノフ君はどう思うのかねと突然私に向かって質問をした。
私はしばらく考えてから、ただ単簡に分かりませんとだけ答えた。私はこの問題について全く意見を持たなかったわけではない。β1阻害薬に関しては痲酔深度に影響するという報告もしないという報告も両方あることを承知していた。ただ基礎医学では脳神経細胞のβ2受容体は発見されているがβ1受容体は未だ発見されていないということも承知していたから、もし影響するのだとしてもその現象について明確に説明することは現時点で不可能であると考えたのである。
しかし私のようなものが、そのような講説を長々として時間を取らせるのも申し訳ないという心持ちがしたので、ただ分かりませんとだけ答えておいたのである。その後新進気鋭のS藤S医科大学教授が現れて、全く私が考えていたのと同じような事を説明してみせた。あとから考えると、スミルノフは平生から馬鹿な文章ばかり書いているがあれは本当に馬鹿だと聴衆に思われたのではないかと心配になり、思い出す度に不愉快になって来る。
五
小次郎さんが寄こしたメールによると、小次郎さんは手術室で黒いクロックスとかいうサンダルを履いているようである。私の医局の若い痲酔科医たちの間でも、このクロックスというサンダルを履くのが流行っていた。それを仕切っていたのはやはりローリーで、各自に華やかな色違いのクロックスを買い与えていた。痲酔科医以外の外科医連中は病院が用意した普通のサンダルを履いていたし、研修医は痲酔科を研修中であってもやはり普通のサンダルを履いていた。
ある年、鮎子君が二年間の研修医生活を終えて痲酔科に入局し、その歓迎会が執り行われた。先輩の桂君がお祝いの品だと云って包を渡すと、鮎子君は今ここで開けてもいいですかと云って紐を解いた。中から出てきたのはクロックスであった。今となっては何色であったのか判然としないのだが、色鮮やかであったことだけは記憶している。鮎子君は、私はこれが欲しかったのですと目に涙を浮かべ、感激の余りその場で座り込んでしまった。それほど手術室で派手なクロックスを履くということは痲酔科医局員であるという証だったのである。
その頃の写真が残っていないかと書棚を探してみたところ、クロックスを履いた祐子君の写真を見つけた。
この写真は、祐子君が長椅子で居眠りをしていたので、私が悪戯心にその姿を撮ってやろうとしたものである。しかし途中で気付かれてしまい、目を覚ました祐子君は反感を起こして私の腕を掴まえ、何をするのだと怒っていた。小次郎さんの手紙には、ジビッツを勧められたが教授の隠れ弟子として心が許さなかったとある。小次郎さんの期待に添えず残念な心持ちだが、写真をよく見ると私のところの医局員たちはジビッツとかいうものを随分愛用していたようである。
六
私はサンダルというものが厭だったので、一度もクロックスを履いたことはない。何か緊急事態が生じれば即座に駆けつけることが私の主な役回りだったので、サンダルのようなものではぎこちないと考えていた。また病の身になってみればよく分かるが、サンダル履きの職員の足音ほど病人の耳にやかましく響くものは他にない。そのような理由で私は白い自動車運転用の靴を愛用していた。私がいつも白い靴を履いているのを見ていた研修医の陽樹君は、
「先生、この度白靴の会というものを発足させました」と私の耳元で囁いた。
「なんだい、その白靴の会というのは」
「権威を振りかざす教授は黒い靴を履くものです。先生を慕う私どもはその証として白い靴を履くのです」
「それでその白い靴の会というのはどういう活動をするのかね」
「黒い靴を履いた教授を見かけたら心の中で敵意を抱きます」
「心の中で抱くだけかね」
「心の中で抱くだけです」
「それが活動かね」
「それが活動でございます」
「それで私は何をすればいいのだ」
「先生は何もなさらなくて宜しゅうございます」
この陽樹君というのは平生から口先ばかりの男だったので、私も適当に返事をしておいた。陽樹君は私を慕っていると云いながら、私の医局には入局して来なかった。それから私は二三年ほどその病院に勤めたのだが、ついぞ私の他に白い靴を履く者は只の一人も見掛けなかった。
S浦君も医局員でありながらクロックスを履かなかった一人であった。S浦君もサンダルが嫌いなのだろうと尋ねたら、いいえ、内輪だけの活計に甘んじて得意にその日を渡るのを好まぬだけですと答えた。
私はこの愉快な若者たちと別れて一年半の今日になって、過去を一攫みにして目の前に並べて見ると、私の若者たちは、四十を越した男、自然に淘汰せられんとした男、さしたる才能を持たぬ男を随分楽しませてくれたものだと思う。住み悪いとのみ観じた世界にたちまち暖かな風が吹いた。
四十雀が囀り出した。今まで見掛けなかった子猫が寄ってきて私の顔を怪訝な面持ちで見ている。先刻まで忙しそうに働いていた看護師たちは、みんな連れ立って家路についてしまった。職場も心もひっそりとしたうちに、当直の私は硝子戸を開け放って、静かな春の香りに包まれながら、恍惚とこの稿を書き終わるのである。そうした後で、私はちょっと肱を曲げて、この部屋で一眠り眠るつもりである。
注:この稿には夏目漱石の「硝子戸の中」「思い出す事など」「永日小品」「長谷川君と余」からの大幅でいい加減な引用があります。以前から高橋源一郎さんによる「硝子戸の中」の素晴らしいパスティーシュ(硝子戸の中から始まり、いつのまにか石川啄木との幻想的で悲しい物語になります)へのオマージュをやりたいと思っていたのですが、そのきっかけを与えてくれた、ここでの通称小次郎さんに心から謝意を表します。漱石ファンの皆様は駄文にさぞかしご立腹と思います。たいへん申し訳ありません。来年の夏にでも松山でお会いしましょう。
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