2008/09/20

プロフェッショナルなんてくそくらえ。

NHKのプロジェクトXの後釜的番組に茂木ナントカさんがやっている「プロフェッショナル」という番組がある。なんかの名人とか、それこそ医者だったら神の手とかそういう感じの人が出てきて、最後にプロフェッショナルとは何ですかという質問に答える。24時間そのことを考えるのがプロとか、たいていそういう感じの答えが返ってくる。

先日、僕の送別会があった。僕の医局では毎年1回自主制作映画を作るのが恒例になっているんだけど、僕はその第1作と第2作で主人公の敵役という準主役を演じた。そして、その映画で僕の出ている名場面が編集されたダイジェスト版がそこで大型スクリーンに映し出された。

僕は6年前にこの若者ばかりの医局に指導者として期待されてやってきた。僕はただ自分を見せるだけで押し付けや具体的な指導はしない。彼らには充分カルチャーショックだったろう。それで充分だ。相手を全否定するのもイヤなので、こういうふうにやりたいという提案があったときは「いいんじゃない」が口癖である。もっともっと10年以上も前になるけど、前の大学でも新人たちがマックのアラート音を僕の「いいんじゃない」に設定して、あっちこっちで「いいんじゃない」「いいんじゃない」って鳴りまくっていたことがあったから、やっぱりこれは僕の代表的なセリフなんだと思う。

映画では、たいてい僕は敵役というか悪者というか真犯人だったりするんだけど、その動機となった理由や怒りなどについては台本に書いていないんですよ。他のセリフはびっしり台本に書いてあるんだけど、その僕の独白の場面だけは台本が真っ白なんです。そして監督が、そこはアドリブでお願いしますって言うんだ。それが恒例だったんです。

2作目では、主任教授の座を争うバトルロイヤル戦で、僕と後輩の女医が最終決戦を行うんだけど、僕が彼女に負けそうになる。そこで僕は降参するふりをして土下座をする。土下座をしながら僕の独白シーンとなるんだ。

「お前ら、仕事に命をかけたことがあるか。寝ないで論文読んだり書いたりしたことあるか。ただ時間に流されるようにだらだらと目の前の患者さばいてるだけじゃねーか。仕事っていうのはな、プロっていうのは仕事に命をかけることなんだよ。」

正確には覚えていないけど、こんな感じ。今思うと背筋が寒くなるね。そしてこういいながら彼女に襲い掛かる。

「プロなら最後まで油断やスキを見せるなー!」

ま、結局やられちまうんだけどね。

後輩たちにとって、普段は「いいんじゃない」とばかり言っている僕の本心、僕の厳しさを映画のセリフで知ってかなりショックを受けるというのも、それもまた恒例だったようだ。

当時は僕は本当にそう思ってたから言ったんだけど、そう言ってるやつが映画では結局必ず負ける。そして現実でも、つまり僕の中でも、実はそんなこと言ってた奴はとっくに負けていなくなっているんだ。

世の中、プロフェッショナルに出演して茂木ナントカにプロフェッショナルとは?なんて聞かれるのは社会の極一部の人なんだよ。世の中にはいろいろな人がいる。じゃあ24時間仕事のことを考えられない人はプロとはいえない、だから仕事をする資格ないのか、いや、そんなことはないよね。5時で帰る人だって、パートの人だって、みんな戦力には変わりないんだ。仕事じゃなくて家庭に帰ってから本領を発揮する人だって、家族にしてみりゃとても大事な人だ。世の中働かない人も病気やいろいろな事情で働けない人もいる。そんな人たちも、全部全部含めて社会なんだ。世界なんだ。みんながみんなNHKのいうプロフェッショナルである必要なんてどこにもないんだよ。むしろ組織の、社会の、世界の構成員の最多数派は、「その他大勢」の人なんだ。「その他大勢」っていうのは大切なことなんだよ。なんといっても、組織を社会を世界を成立させるために最も重要なのは一部のプロフェッショナルなんかじゃなくて「その他大勢」に他ならないからね。

だから僕は今後は幸せなその他大勢とは何かを少し模索してみることにするよ。


2008/09/15

お久しぶりです

更新がないので死んだんじゃないかとか、とうとう故郷への帰国を果たしたんじゃないかとか、度重なる大相撲の不祥事と北の湖理事長の辞任を苦に自殺したんじゃないかとか、各関係方面で思ったほど詮索はされていない先生です、寂しい。

先日、古くからの熱心な読者だった某先生に、内輪話が多くなってからここ1年ぐらい見てもいないと言われ、たいへんショックを受けました。

つーことで、放置もいかんだろうと思い重い筆を取りましたが、内輪話やめたら何書けばいいんだ?と呆然としています。もう全然皆さんの空気が読めません。

KYゼリー

「空気読めない」の略は「KY」じゃなくて「KYN」だろうとご意見もありますが、そもそも「KY」は「空気嫁(読め)!」という命令形の略だったはず。いつのまに「空気読めない」の略に変わったんでしょう。

いや、そんなことどうでもいいですよね。早くもこのエントリー書き出したこと自体後悔し始めている先生です。そんなことより、「ジョンソンエンドジョンソン」って、すなわち「ジョンソン」でいいんじゃないかって思いません?あ、どうでもいいですか。


2008/09/15

ウィトゲンシュタインと大澤真幸

論考2-0123
対象を捉えるために、たしかに私はその外的な性質を捉える必要はない。しかし、その内的な性質のすべてを捉えなければならない。

私と貴方の違いを考えてみよう。私は内向的で貴方は外向的だ。私は飽きっぽいが貴方は根気強い。だが、これらの性質はウィトゲンシュタインのいう外的性質にあたる。人間としての「性格を持つ」という点では貴方も私も変わりはない。この「性格を持つ」というのが内的性質(論理形式)にあたる。オバマは黒人でマケインは白人だ。これも外的性質に過ぎない。「肌の色を持つ」という内的性質に違いはない。こうして考えていくと、私と貴方の「内的性質(論理形式)の違い」を見出すことは極めて困難であることが分かる。

論考2-0233
同じ論理形式をもつ2つの対象は、それらの外的性質を除けば、ただそれらが別物であるということによってのみ、互いに区別される。

すなわち、貴方と私の違いは、貴方と私が別物だということによってのみ区別される可能性が高い。では別物だということをどう表現すればいいだろう。野矢によれば、内的性質(論理形式)が同じであれば、「この」という指差しによってのみ両者は区別される。それは「貴方」と「私」であり、また「貴方の名前」や「私の名前」でもあろう。

最近読んだ大澤真幸の「不可能性の時代」に、まさにそのことを指していると思われる箇所があった。

名前は個体の諸性質に還元することができない余剰Xを指示している。

この場合の「名前」とは、野矢のいう「この」という指差しに相当し、諸性質とは外的性質のことだ。

コピーライターは使用価値の上ではさしたる相違のない商品の間に差異性の幻想を与えることを仕事としている。

結局は内的性質(論理形式)が同じである商品に、コピーライターは懸命に「この」という指差しを施すことで差異性を与えようとしている。だが、論理形式が同じであれば論理的にその差異を明確にすることなどできない。それは大澤のいうように幻想なのかもしれない。

繰り返すが、貴方と私の違いは、貴方が貴方であること、私が私であること、それ以外に何もないのだと思う。

論考2-025
実体は形式と内容からなる。

形式とは内的性質(論理形式)のことだろうか。そして内容とは実質、すなわち「この」という指差しにあたるのではないか。とすれば実体に外的性質は含まれない。根気がない、何をやってもダメ、存在する価値などない、そんな外的性質なんかどうでもいいことなんだ。と、やや強引で我田引水的な結論で、私は私と貴方を励ましたい。


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