ナニワエキスプレス
先月の末に書いたスペースサーカス、先生はこんなマニアックな音楽ネタは全くウケないだろうと思いましたが、興味を持ってくれた方もわずかながらいらっしゃったようなので、続編を書きます。
*
学生時代、友人のフュージョンバンドにヘルプのキーボードとして参加した。そこで演奏したある曲を長年思い出せなかったのだが、それがスペースサーカスというバンドの曲だったことが判明し、その曲との四半世紀ぶりの再会を果たしたことを前回書いた。
そのバンドが用意した曲目の中には、ナニワエキスプレスの「高野サンバ」も含まれていた。ナニワエキスプレスの曲はたいていの場合、ロックテイスト溢れるギターかジャジーなサックスがメインメロディを奏でる。しかし、この曲は例外的にエレクトリック・ピアノが主役だった。おそらくこの選曲は、せっかく手伝いに来てくれるのだからと、彼らが僕のために用意してくれたのだと今になって思う。僕らは何の疑問も持たずにその曲を「タカノサンバ」と呼んでいた。本番のMCでも「次はタカノサンバです」と言ってたと思う。コンサートが終わった後の打ち上げで、ベースの松ちゃんが「あれって本当はコーヤサンバって読むんじゃないかなあ、ほら、高野山(こうやさん)とかけてさ」と初めて疑問を呈した。でもみんなはふふふと笑ってその話題は一瞬で終わった。その曲がやっぱり「THE KOYA-SAMBA」だと知ったのは、それからもう何年も経ってからだった。
ヘルプが終わって自分の大学のバンドに戻った頃だった。僕らはオリジナルのフュージョンをやってて、ヤマハが主催するコンテストの地区予選に何度か挑戦していた。そうだなあ、例えばサザンとかカシオペアなんかを生んだ由緒あるコンテスト、その地区予選です。出場者の演奏がひととおり終わると、審査の間はゲストが演奏する。地元のある有名ヘヴィメタバンドがよくその役を務めていた。静かだった会場は、そのとき初めて黄色い歓声につつまれる。それはちょっと屈辱的でもある瞬間だった。
1年ぐらい経った後だったろうか。そのセミプロバンドでコージー・パウエルのようなサウンドを叩き出していたドラマーのTさんが、なんと僕らの大学に職員として就職してきた。Tさんは今後音楽はちょっとした趣味としてだけ続けていくということだった。そして結成間もない1年生バンドのヘルプドラマーとしてニコニコしながら楽しそうにドラムを叩いていた。僕らにしてみればちょっとした事件だった。
卒業が近くなって、そろそろ音楽活動もやめようと思い始めたころだった。僕のバンドが練習していた練習小屋に、時間を間違ったTさんが入ってきた。「あ、すいません。間違えました。」そういってTさんは慌てて出て行った。僕は何かこれが千載一遇の瞬間のように思え、すぐに戸を開けてTさんを呼び止めた。「あのう、せっかくだから一緒にやっていきませんか」僕は手が届かないと思っていた人に勇気を出して言った。
Tさんは何でもそちらに合わせるというので、僕らはいつものオリジナルの持ち曲を演奏し始めた。ゲロが出そうなほど飽き飽きしていたはずの僕らの曲は、Tさんが叩き始めた瞬間に全く別の新しい曲になってしまった。絶え間ないハイハットと床ごと振動するバスドラ、スネアはすべてリムショットで僕らの耳を突き刺した。オリジナル曲という僕らの土俵にもかかわらず、僕らはただTさんのパワーに負けまいとするのに精一杯の大苦戦となってしまった。あのわずか5分ばかりの間、僕は何度も小屋ごと宙に浮いたような気がした。
ヘヴィメタのセミプロドラマーの洗礼を受けた僕は、ぜひ卒業前にTさんと思い出を作りたいと思った。Tさんは、僕のような鍵盤奏者は初めてで感動した、もっと早く出会いたかったと言ってくれた。それはたぶんオルガン系が多いヘヴィメタ畑しか知らない人にとって、クラビネットやローズが新鮮に思えただけだろうと僕は思う。
僕はさっそくバンド間を越えた人選でTさんとのチームを結成し、大きなデパートの前で行われる野外コンサートに参加することにした。そしてそれが僕にとって最後のライブとなる。僕はTさんとなら、僕ごときの腐ったオリジナル曲よりも、ぜひナニワエキスプレスをやりたいと思った。当時最もパワフルといわれた東原力哉のドラムを再現できるのはTさんしかいないと思った。
ナニワエキスプレスの中でも絶対やりたかった曲があった。「エマージェンシー」という曲だ。印象的なギターリフが4小節続いた後、5小節目は16分休符を1つおいて16分音符を1発だけ全員で鳴らす。まずこのイントロでやられる。そしてパワフルなベースとドラム、ギターとサックスのユニゾンによる緊張感のあるメロディ。今でも頭音として蘇る名曲だ。
ところがあまりにも難曲だった。1週間経っても「エマージェンシー」は形にならなかった。コンサートでは少なくとも5曲は演奏しなきゃだめだろう。もう時間がない。メンバーから悲鳴が上がった。とてもじゃないが、このままでは全曲ナニワエキスプレスは絶対無理だと。早く仕上がりそうなスクェア(現T-SQUARE)も何曲か入れて欲しいと……。
そしてバンド名が決まった。僕らはナニワエキスプレス(NANIWA EXPRESS)とザ・スクェア(THE SQUARE)を演奏するバンド、名付けてナニェア(NANIARE)です。
そして本番の日もやってきた。スクェアを5曲ほど仕上げたところでその日はやってきてしまった。ナニワエキスプレスは最初の1曲「エマージェンシー」さえも完成に至らなかった。結局、ただのスクェアのコピーバンドと化してしまった。
そしていよいよ僕らの出番となった。「えーと、次のバンドは……」僕らを紹介する人がマイクを握って僕らのバンド名を確認した。
次のバンドは、「何アレ(NANIARE)」です!
*
前置きが非常に長くなってしまいましたが、先生は懐かしくなってさっそくCDを買ってみましたよ。志半ばで挫折して演奏できなかった因縁の曲、「エマージェンシー」を聞きたいなあ。スペースサーカスのような幻のバンドとは違って、ナニワエキスプレスのCDはベスト盤などが比較的簡単に手に入るようです。そこで今回はこのベスト盤を買いました。
スペースサーカスにも少し当てはまるんだけど、この頃の日本フュージョンにおける最大の魅力は、先生は日本人独特の「歌謡曲的」なメロディにあると思います。アメリカ・フュージョンにおける主旋律はどちらかというとインプロビゼーションのためのテーマという意味合いが大きいけれども、日本フュージョンではインプロビゼーションよりも、Aメロとサビメロそのもののワビサビが重要になってきます。例えばその昔、大野方栄はカシオペアの「Take Me」や「Long Term Memory」に詩をつけて歌い、良質なポップソングを作り上げました。これもカシオペアの曲が印象的で歌いやすいメロディを持っていたからこそといえましょう。ナニワエキスプレスも例外ではありません。超人的なリズムをバックに日本人的なメロディがリフレインするところで先生は最高潮に達するのです。
1.ORIENTAL MAKIN' LOVE この曲から始まるのかあ。同じモダンビートから選ぶんだったら、やっぱり先生が衝撃を受けたイントロの「エマージェンシー」を先頭に持ってきて欲しかったなあ。でもこの曲も「琴」っぽい音をフィーチャーした印象的な曲です。
2.YELLOW ART これもモダンビートからですね。ナニワにしたら割りと上品なフュージョンです。
3.CHARCOAL BREAK モダンビート続くなあ。スクェアっぽい曲ですね。
4.BETWEEN THE SKY AND THE GROUND これはデビューアルバムの曲だね。まさにギターフュージョン!
5.BELIEVIN' デビューアルバムの1曲目で世間をあっと驚かせた超人気曲。もうギターソロは永遠に続いて欲しいと思うね!
6.THE KOYA-SAMBA これこれ、これが「タカノサンバ」だと勘違いしてた曲。四半世紀ぶりに聞きました。
7.FOR MY LOVE デビューアルバムの曲。意外に静かな美し系の曲多いね。
8.RED ZONE セカンドアルバムの出だしの曲。ギターとサックスのユニゾンメロ、炸裂すリズムセクション、実にナニワらしいサウンドです。
9.JASMIN 中期の大人気曲ですね。これってシャカタクのナイトバーズと同じコード進行ですね。日本人なら泣ける。
10.MIL'MAMA 傷だらけの天使みたいにサックスによる主旋律が楽しい曲です。
11.THE LADY OF TOLEDO 日野皓正を本気にさせた曲ですね。
12.LAZY FANTASY また岩見さんのギターに泣かされて終わり。
いやー、堪能しました。日本フュージョン史に燦然と輝くバンドですなあ。先生もう満足満足。いや、なんか物足りないなあ。やばっ、先生は大失敗したかもしれない。そもそも先生が一番聞きたかった「エマージェンシー」って曲、入ってた?
自己犠牲
亀山郁夫先生がロシアの芸術を語るときによく「二枚舌」という言葉を使う。権力に媚びているように見せかけながら、けっして権力には屈服しない芸術をいう。
ここ何年か宮沢賢治の「自己犠牲」について考えてきた。自分の命を捨てることで妹が幸せになるのなら、賢治は惜しまず命を捨てたことだろう。誰しも個々の心中には自己犠牲の精神というものが内在するであろうし、私にはそれを惜しみなく実践できる自分でありたいという願望が確かにある。だが、迫りくる軍国主義の到来を前に、賢治は「より大きなもののために惜しみなく自分を犠牲にすることの恐ろしさ」も同時に予感していたのではないか、というのは考え過ぎだろうか。
カムパネルラはザネリのために惜しみなく命を捨てたのだろうか。ならば汽車の中でのカムパネルラはもっと幸せそうでもいいのにと思う。「みんなの幸いのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」というジョバンニのセリフは、子どものころから頭に焼きついて離れない言葉だ。だが今冷静に考えてみると、カムパネルラの死よりも、早く母親の元に牛乳を届け父の帰りが近いことを知らせたいジョバンニで物語は終わるのだ。単に自己犠牲が賛美されているとは到底思えず、最近の私はこれも「二枚舌」なのではなかろうかと勘繰ってしまうようになった。
自己犠牲を超えた本当の幸いがある。その本当の幸いとは何か。結局賢治は自らの永遠のテーマに答えを見つけることができず、あるいは答えなどないことを悟ってこの世を去ったのではないだろうか。
NHKとYouTube …
かねてからNHKアーカイブスのインターネット配信を計画していたNHKが、その配信手段として世界的な人気を誇る動画共有サイトYouTubeを買収すると発表した。また同時にインターネット配信における新たな受信料徴収を実施する方針も明らかにした。
新たな受信料徴収の対象者はテレビの場合と同様に「コンピューターを有している者すべて」としており物議をかもしそうだ。NHK受信料不払い連盟の石井代表は「ネットユーザーすべてがNHKアーカイブスを利用するわけはなく、ましてやネットに接続さえしていない人からも徴収するのは明らかに間違っている」とのコメントを発表した。これに対しNHKの橋本会長は「現在は無線LAN機能を内蔵している機種も増えており、ネットに接続しているか否かの判別は難しい」と反論した。NHKでは受信料徴収担当職員を大幅に増員しパソコンの所有者からのべつまくなく徴収する方針だ。
NHKはYouTubeを介したNHKアーカイブス配信の記念すべき第一回として、DJ OZMAのアゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士を配信したところ、瞬く間にヒット数第一位を記録した。橋本会長は「日本が誇るNHKの映像コンテンツが世界的にも充分通用することが証明された」とし、日本のみならず世界からの受信料収入に期待を寄せている。
↑これは2007年の1月初めに書いたウソニュース。ウソニュースの世界にはその道のプロがたくさんおり、それに比べりゃつまんねーなと、そのときは先生は公表を差し控えてボツにしました。先生は大のNHK好きですから、当時YouTubeにアップされたNHK番組の動画がどんどん消されていくのを非常に残念に思っていたのです。もう、いっそのことNHKにYouTubeを買収してもらいたい、そんな当時の思いがこもっています。
なんで今頃こんなボツ原稿を思い出したかというと、次の記事を見たからです。
■Going My Way: すべてのビデオが高画質、NHK が YouTube にチャンネルを開設
NHKonline さんのチャンネル、とても楽しみです。
ロックンロール誕生を知るための10選
「最強のロックンロール10選」に向けて、先生はまず「ロックンロールと呼ばれる音楽はいかにして発生したか」について勉強したくなりました。すなわちその誕生の歴史です。ただし「誕生の歴史」に長居しているわけにもいきませんので、やっぱりたったの「10選」でまとめます。
バッハから始めるというようなことはしません。ロックンロールの誕生は50年代の初頭だという設定にし、その直前の40年代初頭あたりから始めることにします。また「ロックンロールは黒人音楽由来」という立場に立ち、黒人音楽から始めます。ですから、シナトラとかは省略します。
今回参考にしたのは「英語版ウィキペディア」と先生の宝物である「Rock and Roll Hall of Fame and Museumの公式パンフレット」(上の写真)です。
ロックンロールの発祥には黒人音楽であるブルースが大きな下地になっているのは間違いないでしょう。南部の黒人たちがギターの弾き語りで歌ったカントリーブルース、特にデルタブルースをまず最初にあげておきます。ちょっと唐突ですが、その理由はいずれ後述します。
■ Robert Johnson - Crossroad (1937)
ブルースは現代でも直接影響を受けたミュージシャンがたくさんいますし、さすがにRobert Johnsonは超有名ですから、皆さんあまり違和感ないんじゃないでしょうか。
ところでその頃北部ではジャズ、ビッグバンドによるスウィングが隆盛を誇っていました。そしてビッグバンドもブルースの影響を受け始めます。たとえばブギウギです。四分音符を三連符に置き換えてその中を抜いたように演奏します。ここではカウントベイシーのブギウギをあげておきましょう。
■ Count Basie Boogies with the Big Band (1940's)
いかがですか。ブルースコード進行を軽快なブギウギリズムで演奏する。ロックンロールの片鱗を伺わせますが、まだジャズに聞こえますよね。
さて、ジャズがより個人プレーや即興演奏に重点を置くようになり、これじゃあ踊れないということでダンスミュージックの需要が高まっていました。そこでビッグバンドをやってた黒人ミュージシャンたちは、ブルースコード進行の曲をさらにリズムを強調して演奏するようになります。
■ Big Joe Turner - Roll 'Em Pete (1938)
これはかなり貴重な音源だと思います。でもまだジャズの香りがします。その後、このBig Joe Turnerや、Wynonie Harris、Louis Jordanといったミュージシャンの音楽はその印象的なリズム感からJiveとかJump Bluesと呼ばれるようになります。
■ Wynonie Harris - Good Rockin' Tonight (1948)
この曲はRoy Brownがオリジナルと思いますが、このWynonie Harrisのもよく知られているようです。このように40年代後半ともなるとJump Bluesはますますそのリズムが強調され(といってもまだブギウギの4拍子ですが)、Rhythm & BluesあるいはBlues & Rhythmなどとも呼ばれ、メジャー化していきます。メジャー化といっても当時のアメリカは、黒人の音楽は黒人が聞き、白人の音楽は白人が聞くという、人種文化の住み分けができていましたから、黒人音楽はrace musicと呼ばれてヒットチャートも別集計でした。さすがにrace(人種)はまずいだろうという話になり、1947年にビルボード誌が正式にRhythm & Bluesチャートと命名しました。これでR&Bという言葉が広く使われるようになりました。
さて、一方白人はどうしていたのかというと、白人によるカントリーといいますか、いわゆるヒルビリー(Hillbilly)のミュージシャンたちも早くからブルースやブギウギの影響を受けていました。
■ DELMORE BROS - FREIGHT TRAIN BOOGIE (1946)
いかがでしょうか。典型的なカントリーかと思いきや、ブルースコード進行やブギウギのベースラインが登場し、いわゆる白人ロックンロール、ロカビリーの誕生前夜を思わせます。
一般にロックンロールは、黒人ロックンロール誕生に影響されて白人がロックンロールを始めたと思われているようですが、そう単純でもなく、上記のように早くからその影響を受けていた人たちもいたのですね。
ところで先のJump Bluesの世界でも、密かに両者の交流は行われていたようです。たとえばLouis Jordanの以下の曲は、ヒルビリーの音楽家が作曲したと言われているそうです。
■ Louis Jordan - Choo Choo Ch'Boogie (1946)
これでブギウギリズムを元にさらにバックビートを強調して8ビートとなればもう立派なロックンロールなんですが、それをピアノでやったのがファッツ・ドミノとリトル・リチャードでしょう。ギターでやったのがチャック・ベリー。これにアイク・ターナーを加えた4人が、いわば黒人ロックンロール創成期の四天王といえましょう。
■ Fats Domino - The Fat Man (1949)
そこでその四天王のひとり、ファッツ・ドミノの最初のヒット曲です。ファッツ・ドミノはその後間違いなくロックンロールスターと呼ばれる存在になりますが、まだそれ以前のJump Blues、R&Bとの区別はよく分かりません。当たり前ですよね。
さて、このあたりで「ロックンロール」の歴史を語る上で欠かせない重要な人物が登場します。アラン・フリードという人物が1951年からクリーブランドのラジオ放送で「これがロックンロールだ!」と叫びながら、このようなR&Bをかけまくったのです。「R&Bは黒人音楽だから白人は聞かない」という根強い先入観を追い払うためにロックンロールという別称で呼んだのではないかという説が有力です。そうしてR&Bという音楽はロックンロールという音楽として白人の若者たちの間に広まっていくことになります。
さあ、いよいよロックンロールの誕生です。一応最初のロックンロールは1951年にメンフィスで録音されたRocket 88であるという説が支持されています。
■ Ike Turner/Jackie Brenston - Rocket 88 (1951)
これが音楽的にそれ以前のR&Bとどこが違ってロックンロールなのかは難しいところですが、Sam Phillipsがそう言ったから、アラン・フリード登場後だから、MemphisのSun Recording Studioで録音されたから、など様々な思惑が絡んでいることなのでしょう。「歴史とは特定の知の配置である」by フーコー。これは音楽の歴史にも当てはまる言葉かもしれません。
さて、残り2曲となりました。ここでいよいよ白人ロックンローラーの登場です。アラン・フリードがいくらR&Bをロックンロールだ聞けと叫んでも、黒人音楽を白人が聞くことにはまだまだ根強い抵抗がありました。黒人音楽を演奏してくれる白人ミュージシャンが必要だったのです。そこで登場したのがビル・ヘイリーでした。
■ Bill Haley - Rock Around The Clock (1956)
誰でもご存じの曲ですが、この曲は1955年の映画「暴力教室」に使われ非常に有名になりました。また先生の世代にしてみれば1973年の映画 「アメリカングラフィティ」の曲でもあり、ロックンロールといわれてまず思い浮かべる曲のひとつです。
ビル・ヘイリーはこれ以前にも、R&Bチャートのヒット曲をすぐさまカヴァーしてヒットさせるなど、まさに白人への橋渡しを行った最初のロックンローラーということができると思います。しかし、いかんせんビル・ヘイリーは中年のおじさんなので、若者へのアピール度はいまひとつでした。そこでいよいよ登場したのがあの人です。
■ Elvis Presley - That's All Right Mama (1954)
ローリングストーン誌の見解では最初のロックンロールはRocket 88ではなく、このプレスリーのThat's All Right Mamaだということになっています。
強大な影響力を持つことになったひとりの若者の登場で、ロックンロールという音楽は50年代後半に花開くこととなります。その後白人としてはジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービソン、バディ・ホリーなどが、黒人としてはチャック・ベリー、リトル・リチャードなどがしのぎを削ることとなります。
このようにロックンロールは、誰かが「よーし今日からロックンロールという音楽をやるぞ」と宣言して始めたわけではありません。様々な音楽を背景として、いろんな場所からいろんな経緯で発生してきたわけであり、それをある時点で振り返って「これがロックンロールだ」と定義するわけです。世の中には初期R&Bやロックンロール、ロカビリーなどに、それはそれはたいへん詳しい方がたくさんいらっしゃり、詳しい解説サイトもあまたあります。あれが入ってないとか、ここが違うとか、いろいろご意見もございましょうが、ご指摘いただけると幸いです。
以下、たぶん「最強のロックンロール10選」までにはあと2つぐらい余計なクソエントリーを書く予定です。ではまた。
続編その1:■お前ら、これがロックンロールだろ!(黄金の50年代10選)
R8で注射針の針先を試し撮り
先生はこれまで普段撮りには代々カシオのデジカメを使ってきましたが、今のEX-Z4を約5年使いましたので、そろそろ新調することにしました。カシオ一筋で今度もエクシリムといきたいところでしたが、レンズがペンタックス製でなくなってからちょっとがっかりしてるのと、せっかくならもっとマクロ機能が強力なものが欲しいよな、ということで、ついに他社製品に手を出すことにしました。リコーのR8です。
さっそく試し撮りで、注射針を写してみました。
- まず普通に撮ってみました。となりは比較用の3色ボールペンです。23Gの注射針です。
- 普通のマクロモードで気楽に撮ってみました。トンでるのは許してください。まあコンデジならこんなものだと思います。しかし、驚いたのは次です。
- ズームマクロモードでテレ端で撮影。こうしてパソコンに取り込んでみるとそうでもないですが、最初この画像が2.7インチの液晶画面に現れたときはびっくりしました。
- しかし、よく考えてみるとズームマクロモードのテレ端は、単にデジタルズームじゃないかと気づきました。そこで、2番目の画像を等倍ピクセルにしてみました。こっちの方が解像度良かったりします。
昔からコンパクトデジタルカメラはマクロが得意ですが、久しぶりに最新機種を手にし、今はその技術の発展ぶりに感動気味な先生です。
ちなみに先生が最後まで迷ったのは以下の機種です。おそらくこのクラスでは画質は最高ではないでしょうか。あまり難しいことは考えずに撮りたい、しかも美しく、という向きにはぜひオススメします。
- 教授御尊顔
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