ロッキーチャックとフランス・ギャル
有名な話で今さらなんですけど、今日はこれでお茶を濁します。
■France Gall - Poupee De Cire, Poupee De Son
追記:どうしようもない捨てエントリーのつもりだったのですが、なんとmed-legend先生が反応してくれましたので、ありがたく逆リンクします。フランス・ギャルは様々な形で日本の音楽シーンに潜在的な影響を及ぼしていたのですね。
■医学都市伝説 | ドリフターズとフランス・ギャル(リンク切れ)
「夜と霧」にみる辛さの客観化
以前、こんなことを書いた。
どうしようもなくつらいとき、自分は本当につらいのだろうか、つらい自分を演じているのではないだろうかと、一度自分を疑ってみるとよい。
少し楽になっただろ。
「夜と霧」は、学生時代に霜山訳で読んだが、新版の池田訳でおよそ20年ぶりに読み返した。
フランクルは収容所生活の間に、将来「強制収容所の心理学」と題する講演をすることを思い浮かべることで、自分の現在の苦しみをまるで研究対象のように客観的にとらえることに成功したと語っている。そしてスピノザの「エチカ」から、次の一節を引用した。
苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる
私の先の文章は、おそらく旧訳で読んだこの部分の潜在的な記憶が表出したのだろうと、新訳を読んでいて私はそう思ったのであった。 しかし、未来をも絶望視しなければならない状況では、この方法をもってしても救い難い。ここから先がフランクルの真骨頂なのだ。読みやすい新訳をぜひおすすめする。
生きることの意味とは、なぜ生きるのかという問いに対する答えではないのだ。生きるということは、絶望や死も含めて生きるということであり、生きるということ自体が意味なのである。
松阪牛のたにみさんをたらふくいただく
読者の皆さんもすでにご存じのことと思いますが、先生は野牛マニアです。うそです。前回は愛鳥家である先生が実際に野鳥の肉を食べ、こうして感謝していただくことこそが正しい愛鳥精神なのですみたいなことをカッコつけて書きましたけど、もうそれって全然ウソですから。命をいただいて食べることへの感謝だなんて、先生はちょっと正義漢ぶってみただけです。ほんとうはただ興味本位で一度食ってみたかっただけなんです。そのくせこれがついさっき殺された鳥だって知ったとたんに怖気づいた、申し訳ないが、先生の真の姿はそんな情けない姿なんです。
で、やっぱ野生の生き物を食っちゃいかんよ、しかも自力でわざわざやってきた鳥なんか特に食っちゃいかん。そんなもん食っちゃ意識せずともどうしても罪の意識がつきまとってしまう。やはり食うからにはそんなこと気にせずたらふく食いたい。それが現代人の本心なのではないか? だから、やはり食うなら最初から食用目的で飼育された動物に限る。最初から私たちに食われる運命を背負って生まれてきたんだもの、罪悪感を感じる必要は全くない。そもそも命とはとかそんな小難しいこと考える必要もなく、何も考えずにただひたすらうまいうまいといいながら食べることができるはず。
じゃーん、懸賞で当たったんですよ! 何がって、松阪牛ですよ! 松阪牛が500グラム! 2人で500グラム食えるんですよ。松阪牛っていったらあなた、シベリアからわざわざ渡ってくるあいつらとは違って、最初から人に食われるためだけに生まれてきた最高級食肉なわけですから、これはもう何も考えずにひたすら食うしかないんですよね。
よーし、スキヤキにするよ。いやー、悪いねえ。いや、悪いねえ、って、別に牛に悪いわけじゃないんですよ。だから牛に罪悪感なんか感じる必要ねぇーっつってるだろ。食われるために生まれてきたんだから。先生が悪いねえって言ったのは、こんな美味い肉を食べられないあなたたちに対してですよ。
いやー、しっかしよく当たったなあ。何年かつづけて毎年応募してきたけど、やっと当たったよ。先生まさか自宅で松阪牛をたらふく食えるとは思っていなかったなあ。で、これって本当に松阪牛なんだろうな。先生、実は今まで食ったことないから、ちょっと自信ないなあ。あ、どれどれ、ちょっとその書面を見せてくれ。
えーと、そうか、この牛は「たにみ」さんという名前だったのか。メスだったんだなあ。お母さんは「みさと」さんという方だったのか。あ、ちょっと変な雰囲気になってきたぞ。やばい、やばい。先生ったら、どうして「さん」付けで呼んでいるんだろう。いや、たとえ名前がついていようが、女の子だったって知ろうが、生まれてから1130日目の1月29日に殺されたんだってそんな具体的なことを知ろうが、この方は食べられるために生まれてきた、そういう運命だったってことはゆるぎない事実だ。だから罪悪感なんか全く感じる必要ないんだってば。
だが、ここまで具体的な情報が得られると知ると、もっと知りたいと思ってしまうのが情けないかな人間の本性なのだ。三重県松阪食肉公社で個体識別番号を入力すれば、「たにみ」さんの生前の情報がもっと得られるのだ。いや、これ以上知りたくない気もするが、やっぱり知りたい。ああ、出てきた出てきた、いとしの「たにみ」さんの情報が。おっ、や、やばい。「牛の写真」ってリンクがあるぞ。
カメラのフラッシュにより、赤目・白目になることもありますが、牛には全く問題はありませんのでご安心下さい。
これをクリックしたら、生前の「たにみ」さんの御顔が拝見できるのだろうか。ああ、見てもいいのだろうか。もうほとんどその肉が我が胃袋におさめられてしまった、その肉の持ち主の御顔を、今さら拝見していいのだろうか。だめだ、見たくないけどやっぱり見たい。鼓動が高鳴る先生は、そのリンクをクリックしました。
た、たにみさん!
か、かわいい…。思った以上にかわいいぞ、たにみさん…。うう、す、すまん…。その夜、先生は涙を拭きながら床に入った。たにみさんの肉のにおいは、寝室にまでしみわたり、翌朝まで消えることはなかった。
労働 仕事 自由 リベラル
全くの思いついた草稿。
私の大ボスは、「労働と思うなよ、これは仕事だ、仕事と労働は違う、働かされてると思うな」というのが口癖だった。
仕事とは何だろう。能動的なのが仕事で、受動的なのが労働=奴隷だろうか。これはやりがいのある道、これこそ私の天職とその道を極め、専門色を強めていく。何チャラの権威、神の手とかもてはやされる、それが大ボスのいう仕事なのか。
私はそのうち違う道を選ぼうと思いながら、とりあえず今の「仕事」を続けているうちに、大ボスの思惑どおり、その専門職集団のちょっとした指導者的立場にまでなってしまった。
だが、私は逆に、その専門色を極めれば極めるほど、その専門色に染められ囚われていく感覚に襲われる。「奴隷」とは「専門職」のことである。専門色を極めるほどに、自由を捨てているような気がする。捨てているような気がする自由とは何か。フリーなのか、リベラルなのか。
生きているうちに知るべき知識はもっと他にあるような気がする。それが最近の焦りといえば、そうなのかもしれない。
言葉の言い換え―ウィトゲンシュタイン
国語研の言葉の言い換えなど無駄だと書いた。
「語の意味とは、言語のなかでのその使用である。」(ウィトゲンシュタイン)
言葉には言葉そのものの意味など最初からなく、意味とはその言葉の「使用」そのものである。すなわち、いくら第三者的な立場でとはいえ、いや第三者的立場だからこそ、それによる言葉の定義など無駄なのだ。
「地デジ」が分からない。誰か説明してくれ。ただし、それを説明するために使用するであろう言葉、「地上波」とか「電波」とかの本来の意味を、あなたは理解しているだろうか。そもそも私には「電波」どころか、「電気」が何かさえも上手く理解できていない。説明する人は説明する前に「地上波」「電波」「電気」の第三者的な定義を確認するだろうか。いいやそうではない。人はその言葉の「使用」ができて会話が成り立つとき、その言葉を理解したと誤解するのだ。
だから……いや、もうやめておこう。同じ話題を繰り返すのは。なぜなら、
「凡庸な物書きが気をつけるべきことは、不正確な生の表現を、正確な表現に慌てて置き換えない事である。」(ウィトゲンシュタイン)
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