2018/10/18

アレ

夕方、床屋に行った。

「今日はどうしますか、いつものように少し残して……」
「いや、今日は後ろも横もがっつり刈り上げて」

最近仕事中、妙に髪がうるさく感じる。久々に短くしたい気分だった。

店主はバリカンの歯をいつもより強く私の頭皮に押しつけた。
私の髪は刈り上げられていく。

カットが大方終わり、洗髪のために椅子が倒されたころ、私は「アレ」のことを思い出そうとしていた。
この椅子が戻されると、私は「今日はなにつけていきますか?」と訊かれる。
つまりその最後につける整髪料のことだ。

床屋が終わったら家帰って晩飯食って寝るだけだ。
だから、いつもなら「なんもつけんでいいわ」とか、まあせいぜい「ムースにしとっかな」と答えることが多い。

しかし、今日はひさびさのショートヘアーだし、ちょっと固めて帰りたいな、と思ったのである。
だから。ムースじゃなく「アレ」なのである。
ジェルでもない、
バームでもない、
グリースでもない、
もちろんリキッドでもない、
今どきの若者にしたら、たぶん整髪料としてはもっとも普通であろう、
「アレ」である。

そのもっとも普通な整髪料の名前が全く思い出せないのだ。

ポマード、じゃない。
ポマードというとちょっと古くさい響きだが、最近はシャンプーで落としやすい水性ポマードが、オールドスタイルの流行と相まって人気だそうである。などと、店主が他の客とポマードについて楽しそうに議論している。

背もたれが倒された椅子に横たわる私は、顔を剃られながら「アレ」の名前を思い出すためにはどうしたらいいのか考えていた。いつもなら何も考えず、店内に流れるBGMを聞き流しながら気持ち良くウトウトとする時間なのに。

時間的な余裕はある。
そこで私は、なにかの名前が思い出せないときによく使う方法を行うことにした。

「ア……違うなあ、イ……違うなあ、ウ……違うなあ」
言葉を思い出すには何らかのきっかけが必要である。そのきっかけとなり得るのが、その言葉の「頭文字」だ。
「カ……違うなあ、キ……違うなあ、ク……違うなあ」
このように、とにかく五十音順に一字ずつ思い浮かべていくのだ。それがもし頭文字だったら思い出すきっかけになる可能性は充分にある。例えば私が仮にある種のサラダドレッシングの名前を思い出そうとしており、もしそれが「サウザンアイランド」であれば、まもなく私はそれを思い出すことだろう。
「サ……、あっ、サウザンアイランドだ!」
というように。

ところが、ハ行、マ行、ヤ行までいっても、私は一向に「アレ」を思い出せなかった。
ここまで出ないのは、いくらなんでもおかしい。
何か忘れていやしないか。
そうだ。
濁音を忘れていた。
きっと濁音の頭文字に違いない。

「ガ……ギ……グ……ゲ……ゴ……」
「ザ……ジ……ズ……ゼ……ゾ……」
「ダ……ヂ……ヅ……デ……ド……」
「バ……ビ……ブ……ベ……ボ……」

おかしい。
思い出せない。
何か忘れていやしないか。
そうだ。
半濁音を忘れていた。
きっと半濁音の頭文字に違いない。

「パ……ピ……プ……ペ……ポ……」

おかしい。
思い出せない。
他に忘れてる特殊な濁音無かったべか。
あるいは、ああ、そうか。
あれかもしれない。
小さい「ャ」や「ュ」や「ョ」を入れて一通りやり直してみるか。

「チャ……チ……チュ……チェ……チョ……」

「お疲れ様でしたー、椅子戻しますね」

そこで時間切れとなり、私は完全に起されてしまった。
そして店主がいよいよドライヤーを片手に最後の仕上げに入る。
来た。このときが来てしまったのだ。間に合わなかった。

「何つけて帰ります? それとも何もつけなくていいですか?」
「いや、いや、えーと、その、アレを……」
「あ、なんかつけて帰りますか?」
「うん、うん、そ、そうするかな」
「わかりました。大丈夫です!」

店主はそうとだけ言って、何かを両方の手のひらで伸ばし始め、それを私の髪にマッサージするようにして付着し始めた。
このような付け方、そして付けてもらった感触とその後の髪の立ち具合、ほのかな香り、まさに「アレ」に間違いない。しかし、店主は一言も、その「アレ」の名前を口に出さなかった。

結局、私は「アレ」の名前を全く思い出せないまま、「アレ」をつけてもらって帰ってきてしまった。なんか奇跡的な話ではないだろうか。

そして今私は、「アレ」の名前を思い出せないことにむしろ快感を感じている。
ああ、もうあまり「アレ」のことを考えないようにしよう。
そうしないと、なんか思い出してしまいそうで恐いのだ。

そうだ、今日のこの「アレ」を思い出せなかった話を、「アレ」を全く思い出せない状態のうちに書き上げよう、そうしたら臨場感のある良いものが書けるんじゃないだろうか。

私は久しぶりにブログを書こうと思った。
すでにこの思い出せない感覚は、恍惚感に達していた。
例えてみれば、放尿の直前、排便の直前、射精の直前、のような恍惚感である。

思い出せない状態のまま思い出せない話を書くのだ。この恍惚感が持続しているうちに。
そうして私はパソコンの電源を入れてキーボードを叩き始めた。
途中でちょっと髪を書き上げて、再びキーボードに手を戻したとき、すこし脂っこいような感覚があった。
それで先に風呂に入ってから書くことにしたのである。
脱衣所の鏡で短くなった自分の髪の毛を見ながら私はこう言った。

「さてと、まずこのワックス落として……」

私は賢者タイムの状態で、仕方なく以上のつまらない文章を書いた。


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2020/07/26

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