2013/08/04

続・教授の真夏

稔(みのる)は、7月24日分のブログ更新について悩んでいた。といっても稔自身のブログではない。世界的に高名だとかいう大学教授のブログを、稔はアルバイトで代筆しているのだった。ただし、教授と名乗るその人物とは一度も会ったことがないし、その人物の本名も知らない。そもそも、その人物が本当に世界的に高名なのか、はたまた本当に大学教授なのかさえ疑わしかった。だが、そんなことは稔にはどうでもよかった。月に数回送られてくるいい加減な原稿を、適当に肉付けしてアップロードする、それだけで相当の金額が銀行口座に振り込まれるので、なにも不満はなかった。

教授の原稿にはいつも、自分のブログが他人の代筆であることを隠したいという意図が見え隠れしていた。7月24日分の原稿にも、ブログはあらかじめ書き溜めてあり、自動的にアップロードされるようプログラミングしてある、というようなことが書いてあった。自分がコンピュータに精通しているように見せかけたいのかもしれない。稔にはそれが教授のちっぽけな見栄のように思えて可笑しかった。大物感を漂わせたかったら、コンピュータ通であることを匂わせるよりも、人を雇って書かせていることを知らせてしまったほうが、よっぽど効果的なのにな、と思った。

悩んでいたのは、教授から送られてきた7月24日分の原稿がとても中途半端な内容で、肝心のことが書いていないうえに、突然尻切れトンボで終わっていたからである。これまでの連載内容から考えて、神戸で観た映画の感想が中心となるはずであったが、その原稿はなぜか神戸空港から三宮に向かったところで途切れていた。念のため何日か待ったのだが、それ以降教授からの連絡はすっかり途絶え、音信不通となってしまった。

仕方がないので、稔は自分でその映画を観に行き、そのへんの映画批評サイトを適当に参考にしながら、ありがちで当たり障りの無い感想文をでっちあげた。さらに気を利かせて、少しドラマティックな結末を創作し、しばらく更新が無くても不自然にならないようにしておいた。具体的には、教授が三宮で敵対する組織に捕らわれてしまったかのような小説仕立ての物語にしたのである。

それから数日後、稔の元に一通の封書が届いた。差出人は教授の名前になっている。中にはシネマコンプレックスの入場券が入っていた。ファミリーマートで発券されたもののようである。それは教授の属する組織が8月4日に日産スタジアムで6万人を集めて行う大会の、ライブビューイングのチケットだった。

ついに教授は、自分で原稿を書くことを完全に放棄し、ライブビューイングの鑑賞までをも稔に丸投げして、その感想文を書かせようという魂胆なのだろうか。封筒の中には教授からのメッセージらしきものは何も無く、ただ一枚のチケットだけが裸のまま入っていた。

稔は、女性幹部五人組を中心としたこの組織にさほど興味はなかった。しかし、生活のほとんどをこの代筆のアルバイトに頼っていたため、背に腹はかえられぬと、大会に参戦することを決心した。

8月4日、シネマコンプレックスには大会開催時間の20分ほど前に到着した。会場は、女性幹部五人組のイメージカラーを纏った組織員たちでごった返し、すでに異様な雰囲気に包まれていた。おそらく「風立ちぬ」を観に来たであろう親子連れたちが、あるものは怪訝な表情で、あるものは不安そうな顔を浮かべ、またあるものは怯えたような様子で組織員たちを見ていた。

事前の調査では、このシネマコンプレックスは飲食物の持ち込みが禁じられていた。これからの約4時間半を水分なしで過ごすわけにはいかないと考えた稔は、コーラを買おうとコンセッションの店の前に並んだ。しかし、長蛇の列はなかなか進まず、稔がやっとコーラを手にして会場内に入ることができたのは開演の数分前だった。

入場して最初に稔の目を奪ったのは、スクリーンに映しだされた広大な芝生だった。芝生に全く観客がいないのにも驚いたが、そのど真ん中に構築された回転する巨大なモニュメントに度肝を抜かれた。まるでマックス・エルンストのユビュ王みたいに細い先端だけで立っている。目をこすってもう一度見たが、物理的な構造上、これが倒れないで立っているのは不可能だと思われた。いったい運営スタッフはどうやってこれを作製したのだろう。これは現実ではないのだろうか。早くも稔の心は夢の世界に取り込まれようとしていた。

もちろん、それがライブビューイングの観客に向けられたコンピューターグラフィックであることはすぐ分かった。後日、この観客のいない広大な芝生を見た敵対組織が、「客入ってねえ、日産ガラコンwww」と一斉に批判する騒ぎになるのだが、稔がそれを知ることはなかった。

スクリーンに映しだされた現地の観客たちは、これから始まる夢のような時間を前にすでに臨戦態勢を整え、意気盛んに八文字コールを叫んでいた。スピーカーから発せられるその大きな声は稔の耳をつんざいた。

ライブビューイング会場もすでに色とりどりの衣服で埋め尽くされ、会場全体が揺れていた。その熱気は現地に優るとも劣らない。座席を埋め尽くす万華鏡のような華やかさに目を奪われ、稔は一瞬回転性のめまいにおそわれた。その満員ぶりといったら、もう空席なんかひとつも無いと思われるほどで、稔は自分の席にもすでに他の誰かが居るのではないかと思ったほどだ。係員に自分のチケットを見せて誘導してもらい、おぼつかない足取りでやっと自分の席までたどり着いた。稔が座るまで空いていたのは稔の席と、その左の席の二つだけだった。つまり稔は最後から二番目の入場者だった。

開演前の八文字コールは最近評判が悪い。八文字コールに煩わされないのがライブビューイングの利点のひとつと聞かされていたのだが、どうやらこの会場は例外のようである。会場のあちらこちらから、「俺らが支える」「みんなの妹」「笑顔が一番」「元気でありやす」という叫び声が発生し、そして意外なことに誰ひとり嫌な顔を見せずほぼ全員がそれに応えて幹部五人組の名前を叫ぶのである。これも、活動拠点から遠く離れているという土地柄ゆえなのだろうか。ちなみに「その声聞かせて」は皆無、「シングルベッドは」も絶滅したようである。

稔が席に着くと、右隣から「絶対アイドル」という雄叫びが聞こえた。背中に「艶」と書かれたピンク色の法被を来た大男である。すでに汗だくで独特の臭気を放ち、その熱気は離れていてさえ体温が伝わってくるほどであった。

会場にエマーソン・レイク&パウエルの「The Score」が流れるころ、人をかき分けるようにして中年の女が入ってきて、稔の左の座席に座った。最後の入場者である。これで会場は満員となった。大きな色眼鏡をかけたスーツ姿の女だった。おそらくぎりぎりまで仕事をしており、急いで駆けつけたのだろう。着席するとバッグからペットボトルのミネラルウォーターを取り出して口に含み、乱れた呼吸を整えようとしていた。ふと周りを見回すと、みんな自分の座席のドリンクホルダーに500ミリリットルのペットボトルを用意しているのが見えた。稔はぎりぎりまで並んでコーラを買ったことを後悔した。

「The Score」が新日本プロレスへのオマージュであることは論を俟たないが、その後マーチングバンドがムソルグスキーの「展覧会の絵」を演奏したので、かつてプログレッシブ・ロックを愛した稔は、この大会はEL&Pへのオマージュなんじゃないかと勘違いした。

女性幹部五人組の顔を模した巨大なモニュメントのひとつが開き、東京オリンピックの日本選手団みたいな服を着た幹部五人組が現れると、会場は総立ちとなった。ゆっくり座って観ることができるというのもライブビューイングの利点のひとつと聞かされていたのだが、どうやらこの会場は例外のようである。これも、活動拠点から遠く離れているという土地柄ゆえなのだろうか。前が見えないので困惑しながら稔も仕方なく立ち上がった。この会場でただ一人立つ気の無かったのが、左の色眼鏡の女だった。ただ、深く腰掛けたままだと前が見えないので、仕方なく座席を立ててその上に座っていた。

国歌斉唱のアナウンスとともに、大柄で強面のギタリストが現れた。このギタリストが幹部五人組の祭典に早晩登場することは予想されていたが、まさか開会直後に現れるとは誰も思っていなかったであろう。稔は思わず「ここで……」とつぶやいたのだが、右隣のピンクの大男も同時にそうつぶやいたので、思わずお互いに顔を見合わせてしまった。

稔はかつてギタリストだったが、70年代後半に起きたパンク・ニューウェーブ・ムーブメントを機にロックを捨てた。したがって、おそらくそれ以降のロックに強く影響を受けたと思われるこのギタリストの音楽性やプレイスタイルは受け入れることができず、彼のこともあまり知らなかった。五人組の東京オリンピックのようなコスチューム、聖火台への点燈、ロス五輪を真似したロケットマン、意表をついた一曲目のPUSHと、オリンピックネタが続いていることは理解していたが、それに加えて彼がアトランタオリンピックの閉会式で演奏したギタリストであり、彼の登場自体もまたオリンピックネタであることを、稔は知らなかった。また、その後も知ることはなかった。

幹部五人組が疾走する4時間半は、意外に短く感じられた。初めは原稿を書くという目的が頭にあったので、曲目や演出を意識して記銘しながら観ていたのだが、やがて幹部五人組が作り出す夢の時間の流れにただ身を漂わすだけとなっている自分に気がついた。こんな有様ではあとで原稿が書けないという心配もときどき頭をもたげたが、結果的にそれは杞憂であった。なぜなら、その後稔が原稿を書くことは一度もなかったからである。

稔は右隣のピンクの大男の汗と熱気と臭気と、それから大声と大天使口上に悩まされていた。そのうえ、大男がジャンプするたびに彼の左肘が脇腹に当たる。みんなが一斉にジャンプするときはある程度予測できるから避けることもできるのだが、この大男はときどき稔の全く予期できないときにもジャンプするのだ。実はこれは組織の専門用語で「推しジャン」というものなのだが、稔がそのことを知る日は来なかった。

対照的に左隣の色眼鏡の女は終始座ったままで、からだを揺らすことさえしなかった。しかし、紫のZ型ペンラがしっかりと握られた右手だけは激しく正確に動いていた。しかも、単なる振り回しではなく完璧なフリコピなのが稔には不気味にすら思えた。

五人組がいったん退き、かつての日本代表選手が芝生に現れてサッカーを始めると、組織員たちはやっと座席に座り始めた。退席してトイレに駆け込むものも多数現れ始めた。しかし、周囲の冷えきった雰囲気に相反して、稔の心はよりいっそう熱く燃え出した。北澤豪、三浦淳宏、福田正博あたりまではお約束としても、おそらく将来の日本代表監督であろう藤田俊哉、そしてこの中では一番無名かもしれないが実はQBK柳沢よりずっとずっとかっこ良くて頼りになる、怪我が無ければたぶん日本のエースになっていたであろう14番様こと平瀬智行の登場に、かつて熱烈なアントラーズサポーターだった稔は、密かに目頭を熱くしたのだ。おそらくこの会場で平瀬に興奮しているのは稔一人であろう。それにみんなけっこうガチでサッカーしてくれてる。

このための芝生だったのか、と稔は感慨深げにひとりで頷いた。すっかり静まり返った場内に、そういえば今日は松田の命日だ、という誰かのつぶやきが響いた。だからだろうか。いや、それは深読みというか、運営スタッフを買いかぶりすぎじゃないだろうか。じゃあ上を向いて歩こうは坂本九の命日が近いからだろうか。みんな深読みし過ぎだぜ。あの運営スタッフのことだ。日産だからサッカーやろう、という単純思考に違いない。そのあいだももクロちゃんを休ませることができるし。そう、たまたま日産だからサッカーなのだ。羽に大きな鳥の目の模様をもった蛾は、それで天敵から身を守ろうと考えているだろうか。いやちがう。たまたま鳥の目の模様だったのだ。

だが、そう考えた稔は、まだまだ幹部五人組を甘く見ていたといえるだろう。なぜならピッチ中央でのココナッツサークルを見てもなお、元日本代表のためにではなく、まさに彼女たち五人のために芝生はそこにあったのだということを、この時点では稔はまだ分かっていなかったからである。彼女たちは休むどころか、着替えるとまもなく芝生に乱入して、あろうことか元日本代表とサッカーをおっぱじめたのである。しかもけっこうガチで。そして、今はなき横浜フリューゲルスの黄金時代を支えた名手三浦淳宏の元祖無回転フリーキックを、幹部五人組が壁を作り身を呈して防ぎ、ゴール前でピンキージョーンズトライアングルを形成するあたりから、稔は涙が滲んでスクリーンが見えなくなっていた。それに加え、コノウタでフィールドを駆け巡り、五色のリボンで完成させた巨大な星、これを実際に見ていない輩に、どうして芝生ガラコンなどと批判する資格があろう。

4時間半歌い踊りまくり、そのあいだにピッチを駆け巡り、元日本代表とサッカーをし、元十種競技日本王者とガチで100メートル競争をしてもなお、終演後、ライブビューイング会場のために姿を現した幹部五人組はひとつも疲れた様子を見せず、いつものように笑顔ではしゃいでいた。この無尽蔵の体力があの小さなからだのどこに潜んでいるのか、本気でマラソン選手に育ててオリンピックを狙わせてもいいんじゃないか、と稔は思った。そして日焼け跡も生々しく残るその三日後がガールズファクトリーでのmiwaクロライブ、四日後がファミマ弁当の記者会見、七日後がサマソニのマウンテンステージと、怒涛のスケジュールを難なくこなす彼女たちを見れば、稔はさらなる感動を体験することができたはずだったのだが、それはかなわぬ夢だった。

終演後まもなく、さすがたった五人で巨大な組織を引っ張る少女たちだと稔が感心しきりなそのとき、すなわちれにちゃんが脱ぎすぎてステージ上に落としてきてしまったスカートが回収されたそのとき、左の色眼鏡女が「あなたが周布稔(すふみのる)さんね」と言った。その声に驚いた稔が左にからだを向けると、女は色眼鏡を外した。青い瞳が現れた。女は「思ったよりいい男ね。禿げてて髭がはえてると思っていたわ」と言った。その瞬間、稔の背後からピンク色の袖が現れ、大男の腕が首に巻き付いた。大男が腕に力を入れるのが分かったと同時に、稔は息ができなくなった。女は「あまり手荒な真似はしないでね、マロイ」と大男に向かって言った。やがて女の顔は曇りガラスを通したように不鮮明になっていった。続いて視界の外側から暗黒が出現して全体に広がり、稔は何も見えなくなった。

続々・教授の真夏へつづく!

教授、真夏の方程式で号泣す

■その1 千歳編
■その2 機内編
■その3 大宮編
■その4 再び機内編
■その5 神戸編
■続・教授の真夏
■続々・教授の真夏
■続々々・教授の真夏
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