2013/07/15

教授、真夏の方程式で号泣す その4再び機内編

真夏の方程式

教授は羽田空港発千歳空港行きの飛行機の中にいた。けっきょく、大宮で映画「真夏の方程式」を観ることはなかった。滞在中に原作を読み終えることができなかったからである。

飛行機が離陸したあと、教授は鞄から真夏の方程式の文庫本を取り出した。表紙を見ると、「悲しい話なんでね……」という山郎の声が蘇ってきた。本を開く前に教授は、山郎と他に何を話したのだったか思い出そうとしていた。

「最近、ブログのアクセスが減っているんですよ」と山郎は寂しそうに言った。教授は山郎のブログを高く評価していた。というか、ブログといえばほとんど山郎のブログしか見ていなかった。自分の生まれる前から現在までのあれだけ膨大な数の音楽を聴き、その批評を書ける人物を、教授は他に知らなかった。もちろん、内容が伴えばアクセスが増えるというわけではないことを、教授はよく理解していた。逆にその内容が高度になればなるほど、読者は選ばれてその数が減少していくほうが自然なのである。

教授はもうアクセスログやアクセス解析を見なくなって久しかった。だから憶測でしかないのだが、おそらく今ブログを見にくる人は、ツイッターやフェイスブックでの告知を介してきているのが大半だろうと考えていた。山郎もおそらくツイッターやフェイスブックでの宣伝告知に力を入れれば、きっとアクセスを増やすことができるだろう。だが山郎はそうまでして読んでいただきたいという気持ちはさらさら持っていない様子だった。

それどころか、山郎はフェイスブックがどういうものなのか全く知らなかったし、教授の説明を受けてもなおさっぱり理解できないという顔をしていた。あれだけのブログを書きながら、またパソコンやオーディオビジュアル機器に関する豊富な知識を持ちながら、SNSに関してだけは、まるでそこだけぽっかり穴が開いてしまったかのように何も知らず、また関心も示さない人間を目のあたりにして、教授は少し微笑ましくもあった。

「フェイスブックというのは実名登録が前提なんだ」と教授は山郎に説明を続けた。「おかしな時代になったものだ。私が全盛期だったころは、本名をネットにさらすなんて絶対にやっちゃいけないことだった。それどころか、職業や住んでいる場所を特定されそうな記述や画像もご法度だといわれていた。それが今じゃみんななんの疑問も持たずに本名を登録し、ここに行ってきましたーだの、こんなもの食べましたーだの、なにがおもしろいんだ、あれ。それに本心からそう思っているのか社交辞令なのかどうか知らんが、きれいなとこですねーだの、おいしそうですねーだの、いいねいいねーだの、ほんと気色悪いわ」

どんっと教授はテーブルを叩いた。山郎は全く興味が無さそうな顔でぽかーんとしていたが、やがて口を開いて「で、教授はそのフェイスブックとやらに実名で登録されているんですか?」と訊いた。

「うん、もちろん最初は今使っている日本人名での登録を試みたんだが、フェイスブック側がなりすましじゃないかと疑ってなかなか認めてくれなかったんだ。それで、しかたなくスミルノフ名義で登録したらすんなりいったのだが……」と説明しながら、教授は少し混乱してきた。本名とはなんだろう。あるいは実名とは。戸籍上の名前? 戸籍なんてどうにでもなる。教授は役所に行けばいくらでも日本人として戸籍関連の書類を手に入れることができる。今さら誰が教授を日本人ではないと証明できるだろう。実生活で通用している名前? ならば日本人として暮らしているときと、いまこうしてスミルノフとして山郎と会っているときの、どちらが実生活といえるのだろう。

「ちょっと待ってください。フェイスブックは何を根拠に教授の日本人名は偽名、スミルノフが実名と判断したんでしょうね?」

山郎の疑問はもっともだった。ひょっとするとシェリルのせいかもしれない、と教授は思い当たった。教授がフェイスブック上の日本人名を削除された時期は、グーグルという名前を隠れ蓑にしたCIAのインターネット部門で働いていた彼女が、最高責任者としてフェイスブックに迎えられた時期と見事に一致するではないか。

スノーデンとの連絡を急いだほうがいいな、と教授は思った。だが、飛行機内にいるあいだは何もすることができない。ため息をつきながら、教授は真夏の方程式の栞が挟まれたところを、「栞挟む夢のページ」と口ずさみながら開いた。ふたたび頭の中に「悲しい話」という山郎の声がリフレインし始めた。

「着陸態勢に入ります」というアナウンスが流れたころ、教授は真夏の方程式を読み終わった余韻に浸ってぼうっと前方のスクリーンを見つめていた。よかった。とてもよかった。前回「容疑者Xの献身」を読んだときとは違う種類の満足感だった。あのときはミステリーとしてすごいと思ったのであり、涙が浮かぶほどではなかったが、こんどのは違う。途中から、真犯人が誰だろうとか、どうやって殺したのだろうとか、そんなことはもうどうでもよくなっていた。スクリーンには滑走路が映し出されたが、教授には滲んでよく見えなかった。

ただひとつ気になることがあるとすれば、それは「容疑者Xの献身」同様、◯◯◯を巻き込んだことを置いといて、単純な感情移入で泣いていいのか、という点である。この点については、おそらく今回もすでに議論になっていることだろう。だが、そういう議論を呼ぶこと自体が、作者の術中にはまっている証拠だともいえよう。

手荷物受取所で待っているあいだも、教授の涙はなかなか乾かなかった。涙は乾くのではなく、心に染み込んで紅い血に還って行くのだとしても、浮かんだ涙はすぐには消えなかった。あんなにしつこく何度も「悲しい話」だと言うからだ、と教授は頭の中の山郎を恨んだ。けれども、教授の涙は、実際に頬を流れるまでには至らなかった。教授は、我らがリーダーがコンサートの最後に涙をこらえることができるのと同様、自分にもそういう能力があるのだと、そのときは思っていた。だが本当は頭の中の杏や前田吟や白竜がしょせん本物ではなかったからに過ぎない、ということを教授はのちに思い知ることになる。

手荷物を運ぶベルトコンベアが動き出したのを見ていると、教授の視界に見覚えのある男の姿が飛び込んできた。ハンティング帽の後ろから縮れた頭髪をはみ出させ、ベルトコンベアに鋭い視線を投げかけながら、姿勢よく立っている長身の男である。教授の涙はすっかり引っ込み、口の中がからからに乾いてきた。

吉田

SHKの吉田、その人であった。なぜ吉田がいま北海道に、それも自分と同じ飛行機で来ているのだろう。しかも、吉田について山郎と話した、その数日後のことである。偶然にしてはできすぎているのではないだろうか。吉田の標的は自分ではないのか。教授はそう思わざるをえなかった。やはり、山郎と吉田は通じているのかもしれない。そして、背後で彼らを動かしているのがナターシャだとしたら……。

教授は急いで吉田の視界から離れ、到着ロビーを抜けだした。このまま北海道にいるのは危険だ。そう判断すると、出発ロビーに駆け上がり、とにかく北海道を抜け出せる一番早い便を探した。その飛行機は、神戸行きであった。

神戸へと再び旅立った教授は、迫りくる吉田の魔の手から逃れることができるのか、背後にちらつくナターシャの影、果たして山郎は教授を売ったのか、いや、それよりも何よりも、教授は映画「真夏の方程式」を観ることができるのか? 自分以外の読者を徹底的に置き去りにして、次回、怒涛のクライマックス、教授、真夏の方程式で号泣す その5神戸編に続く。

教授、真夏の方程式で号泣す

■その1 千歳編
■その2 機内編
■その3 大宮編
■その4 再び機内編
■その5 神戸編
■続・教授の真夏
■続々・教授の真夏
■続々々・教授の真夏
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2018/10/18

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