教授、真夏の方程式で号泣す その3大宮編
エージェントとの約束までにはまだ時間があった。時間があるといっても映画を一本観ることができるほどではないし、そもそも原作の読了がまだであった。教授は駅の西口からすぐ見えるアルシェに向かった。このビルの5Fに、今回の特殊任務と関係の深い組織であるHMVの事務所があるからである。この事務所は先月移転したばかりで、その前はロフトにあったと聞いている。ロフトの事務所を閉鎖する際には、我らがリーダーも駆けつけて「移転するってYO!」と叫ぶなどして現場の士気を高めたと伝えられている。
アルシェに入ると、うわさどおりそこには我らがリーダーを中心とした幹部五人組の大きな写真が飾られ、本人たちのものと思われるサインと、おそらく下々の者に向けたと思われるメッセージが記されていた。
「私たちは埼玉推しです!」
それは公然の秘密ともいえるメッセージであり、誰もがうすうす気づいていたこととはいえ、これほど堂々と掲げられているのを見ると、埼玉県民以外の目に触れる可能性を全く考えていないのは油断といえるのではないだろうか、と教授は少し首をかしげた。視線を少し横にずらすと、今日が特別な日であることを伝える真っ赤なポスターが壁一面に貼られていた。
教授はポケットの中の振動を感じたので、携帯電話を引っ張りだして相手を確認した。発信者は約束をしていたエージェントのようである。コードネームは「山郎」という。教授は左右を確認しながらひと目の少ない場所を探し、そこで通話ボタンを押した。
「お待たせしました、教授。山郎です」それはたしかに聞き覚えのある山郎の声だったが、教授は念には念を入れて細心の注意を払わなければならなかった。
「申し訳ないが、念のために合言葉を確かめさせてほしい」と、教授は周囲に視線を走らせながら携帯電話を手で隠して小声で話した。
「わかりました。お願いします」
「では始めるぞ」と言うと、教授は大きく息を吸ったあと、合言葉を投げかけた。
「出欠とります!」
「アユレディ番号!」
「1!」
「2!」
「ウーィエー!」
二人が同時にウーィエーと言ったところで合言葉は成立したのだが、このとき教授は右手を突き上げて昇竜拳のように飛び跳ねていた自分に気づいて、慌てて周囲を見回した。
「合言葉の成立を確認した。そちらから指示をくれ」
「わかりました。教授は今どのあたりにいらっしゃいますか?」
「に、西口の近くだ……」教授の頬に赤みがさした。HMVで時間をつぶしていたことは恥ずかしいから内緒にしておこうと思った。
「それならば教授、尾行されている可能性もあるので、いったん人混みにまぎれてから東口に回ってください」
メンズビオレ洗顔シートスーパークールで噴き出る汗を拭いながら、教授はやっとの思いで東口にたどりついた。階段を駆け上がると、その先のコージーコーナーの前で携帯電話を手にして立っている、真っ赤な半袖のポロシャツに短パン姿の山郎が見えた。
「山郎、先に行って案内してくれ。私は10メートル以上離れてついていく」と教授は携帯電話で話した。
「了解」
山郎は東口を出ると、車一台も通れないような細い路地を二回りぐらいしたあと、焼き鳥屋の赤いのれんをくぐって入っていった。そのあとをついていった教授は、山郎が入った焼き鳥屋をいったん通りすぎてから引き返し、尾行がついていないことをよく確認してからその店に入った。
そこは焼き鳥屋のくせにBGMはビートルズの曲しか流さないという奇妙な店だった。あとで思い返してみると、それは昔で言うところの赤盤青盤みたいなセレクトだったのかもしれないが、そのときはまるでビートルズの初期から後期までの、ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー、レボリューション9、ワイルド・ハニー・パイ、ユー・ノウ・マイ・ネームを除いた全作品が延々とリピートされているように感じられた。
「お久しぶりです、教授」
「忙しいところ呼び出してすまないね」
「いえいえ。それより教授、ここを見て下さい」と山郎は言って、自分の胸元を指さした。
「そ、それは……」
山郎の真っ赤なポロシャツの胸元には四つ葉のクローバーがプリントされていた。傍目にはわからないが、一度気づけば我らがリーダーへの忠誠を誓った服装だということが実によく理解できる。こいつは間違いなく信用のできる男だ、と教授は判断した。
「それでは」と言うと山郎はジョッキを手に持って目の高さあたりまで差し上げた。
「我らがリーダーの誕生日を祝して」
「乾杯!」
両者のジョッキがぶつかり合って音がした。特別な日というのは、我らがリーダーの誕生日のことであった。おそらくいま、組織に関わる人間たちが日本中のあちらこちらで、ある者はこっそりと、そしてある者は盛大に祝杯をあげているに違いなかった。
山郎はビールを一気に呑み干して早くもおかわりを頼んでいた。教授も気を許して、およそ一年ぶりにアルコール飲料を口に含んだ。
「それにしても我らがリーダーの天才ぶりには驚きの連続ですな」と話し始めた山郎の顔は早くも紅潮していた。
「その点については私も同意せざるを得ない。50年、いや100年にひとりの逸材かもしれないな」
どうやら我らがリーダーにすっかり心酔してしまっている様子の山郎は、教授のその言葉にますます気を良くして、酒を呑むスピードはますます早くなっていった。山郎の酩酊が最高潮に達したころ、彼はポケットからスマートフォンを取り出して、我らがリーダーがNHKの番組に出演したときの動画を再生し始めた。
「こ、これですよ、これ。このラップといえばフォーといえばいいと思い込んでしまっているところが」
酩酊した山郎はスマートフォンの画面を教授の方に向けて近づけ、ボリュームをどんどんどんどん上げた。我らがリーダーのフォーという魂の叫びが、店内に流れるビートルズの名曲たちをのみこんでいった。
「いや、山郎、それはちょっとまずい。落ち着け」と教授は狼狽しながら、店内を見回した。後ろの席の男女の団体はとくに気にしているそぶりは見せていなかったが、飲みにきているにしては会話が少なくて妙に静かなのが気になった。ひょっとしたらこちらの様子を伺っているのではないだろうかと教授は少し不安になった。カウンターでは女がひとりで定食のようなものを食べている。だが、こんなところで女がひとりで夕食をとるのは普通のことだろうか。教授は周りに対する警戒を強めていった。
「ところで教授は誰推しですか」
山郎は絶妙のタイミングで教授のほうに身を乗り出した。まるでこの質問をするためだけにわざわざ教授に会いに来たといわんばかりの態度だった。教授としても、それはある程度想定していた質問だった。いつもなら、「いや、私は箱推しで……」とでも言ってお茶を濁すのだが、この男にはそれは通用しないだろうと思ったし、彼になら本当のことを話してもいいだろうという気になっていた。
「れにちゃん……」と教授が答えると、二人のあいだにしばし沈黙の時間が流れた。ビートルズがほどよいボリュームで流れつづけていた。後ろの席からの会話はあいかわらず聞こえてこない。
山郎は教授を見つめたまま椅子に深く腰かけ直した。そして視線を固定したままゆっくりと顔を右側に向けた。横目で教授を睨んでいる。
「紫は……ないでしょ」
教授は山郎の反応が意外だった。「紫はない」というのは組織外でよく耳にするフレーズだった。その言葉がこの男から発せられることを、教授は全く予想していなかったのである。教授は我らがリーダーの天才ぶりについては少しの異論もなかったが、同時に紫の殺傷能力についても高く評価していた。
「僕はね、最初はちょっと黄色だったこともあるんです」と山郎は怪訝な表情を浮かべたまま語りはじめた。「あと、緑の歌も評価しています。緑と赤の声の組み合わせの発見は前山田の最大の功績です。僕の娘はあーりんですけどね。ベタですが」と言ったところで、山郎は少し笑顔を浮かべた。
教授は紫推しを白状したことを後悔し始め、もうこの話題を打ち切ろうと思った。そこで、あーりんの名前が出たところで話の方向を少し変えようと思った。
「あーりんロボは……」と教授が言いかけると、山郎はすかさず「さすがの娘もあーりんロボは理解できないようです」と言ってさえぎった。そして、「高城ロボはもっと理解不能です!」と付け加えた。
「紫はないです」山郎はもう一度確認するように断言した。
なにかおかしい、と教授は思った。少し前には所十三先生の、そして最近では和嶋慎治の魂を一撃で抜き去ったあの紫の殺傷能力を、「天使の眼差し」組織員が知らぬはずはないのだ。ひょっとしたらこれは罠かもしれないという考えが、めったに飲まない酒に酔って意識が遠のく教授の脳裏をかすめた。
「僕は最近、吉田先生の調査のやり方に影響を受けてましてね……」と、山郎は話題を変えた。
「よ、吉田というと、あのSHKの吉田か」
SHKというのは最近日本でその名が知られようになった情報機関で、吉田というカリスマ的なトップの下に、3名の女性幹部がいる。彼らは予告もなしに突然全国各地の酒場に出没し、相手を酔わせて情報を聞き出すという手法によって、膨大なデータを得ている。吉田が教授にとって敵か味方かはまだ判断できない状況だったが、最近の活発な暗躍ぶりには充分な警戒が必要だろうと考えていた。
「吉田のチームは私も知っている。あの女性幹部がいいよね。なんて名前だったかあ、そうそう倉本さん」と教授は自分の警戒心を悟られないように、なるべく自然に会話を続ける努力をした。
「はいはい、モデルの倉本さんね。僕はあのなんてったかなあ、カメラマンの……」
「えーと、カメラマンのね、なんてったかなあ……」
二人は必死にそのカメラマン出身の女性幹部の名前を思い出そうとしたが、ついにその場で思い出すことはできなかった。はたから見れば、それは初老に片足をつっこんだ男たちにありがちな風景だった。
焼き鳥屋の客が入れ替わりはじめた頃、教授は「私はそろそろ……」と言って腰を浮かせたが、山郎は「まあまあ、もう一軒行きましょうよ」といって引き止めた。
「申し訳ないが、早くホテルに帰って真夏の方程式を読み終えてしまいたいんだ」と教授が言うと、山郎は大きく目を開いて「どこまで読みました?」と訊いてきた。山郎はすでに真夏の方程式を読んだようだった。
「半分をちょっと過ぎたってとこかな」
「というと?」
教授はこれまで読み進めた内容を頭の中で反芻した。
「実は◯◯◯が怪しいんじゃないかってとこまで」
そう教授が答えると、山郎は「ははーん」といって顎に手をやりながら何かを考え始めた。
「まあ基本的には悲しい話なんでね……、とだけ言っておきましょう」
「か、悲しい話なのか?」
そのひとことで、教授の真夏の方程式に対するイメージが化学反応のように変化し始めた。ガリレオシリーズというだけで、がちがちのミステリーだという先入観をもって読み進めてきたが、それは間違いなのだろうか。むしろミステリー色を排した東野作品にありがちな、なんとも後味の悪い悲劇なのだろうか。このとき以降、教授は「悲しい話」という山郎の声を頭の中から振り払うことができない状態でしか、真夏の方程式を読み進めることができなくなるのであった。
けっきょく、山郎と二軒目の酒場に寄った教授がホテルに帰ったのは、真夜中をとうに過ぎてからだった。慣れないアルコールが染みこんで脳神経細胞のひとつひとつが膨れ上がり、その圧力が固い骨で閉じ込められた空間から逃げ出せないのが、激しい頭痛の原因のような気がした。教授は真夏の方程式を読むのをあきらめてベッドにもぐりこんだ。
二軒目で山郎と何を話したろう。教授の記憶は曖昧だった。ひょっとすると、山郎は吉田の組織の人間なのかもしれない、と教授は思った。酒に弱い自分を酔わせ、楽しい気分にさせて、なにか重要な情報を引き出したのかもしれない。そうだとすれば、その手口はあまりにも吉田のそれに似ていた。吉田は自分の敵なのだろうか。あるいは、もしもナターシャと吉田が裏でつながっているとしたら。教授はそんな恐ろしい想像を頭から振り払う努力をし、早く眠りにつこうとした。
ホテルのすぐそばには、一昨年のクリスマス、我らがリーダーを初めとする5人の幹部が1万人以上の組織員を引き連れ、CIAが送り込んだ最強の刺客マーティ・フリードマンを倒した戦場の跡があった。そこには、教授のかつての盟友ジョン・レノビッチを祀った博物館もあったはずだが、数年前に撤去され、今晩は人影もまばらだった。それもナターシャの差し金だったのかもしれないな、と教授は考えた。なかなか眠りにつけないまま、夜空は少しずつ白み始めていた。
教授は無事に映画「真夏の方程式」を観ることができるか。山郎は教授の敵か味方か。吉田の正体は? 気になる次回、教授、真夏の方程式で号泣す その4再び機内編へ続く!
教授、真夏の方程式で号泣す
■その1 千歳編■その2 機内編
■その3 大宮編
■その4 再び機内編
■その5 神戸編
■続・教授の真夏
■続々・教授の真夏
■続々々・教授の真夏
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