2013/07/12

教授、真夏の方程式で号泣す その2機内編

真夏の方程式

教授は恐る恐る千歳空港の待合ロビー内に入った。そういえば昨年の松江行き、一昨年の松山行きの飛行機でも、かつて所属していた組織で見たことのある顔が同乗しており、危機感を募らせた。これ以上日本に潜伏するのも限界かもしれないとまで思ったほどである。地方都市行きの飛行機は便数が限られており、敵と同乗するはめになる確率が高くなる。できれば地方都市での特殊任務は避けたい、と教授は思った。

それに比べて羽田便は複数の航空会社が就航しており、便数も多くて安全だ。搭乗口付近まで慎重に歩を進めたが、ナターシャの姿はもう見かけなかった。どうやら別の便らしく、教授は再び遭遇する可能性は低いと考えて一安心した。

教授の手には「真夏の方程式」の文庫本があった。720円、これも必要経費で落ちるだろうか。報告書にただ「書籍」とだけ書けば、事務の目をごまかすことは容易だろう、というケチな考えが頭に浮かんだ。教授の活動資金はそろそろ底をつき始めていたのである。

椅子に腰掛けた教授は鞄の中からもう一冊の文庫本を取り出した。読みかけのレイモンド・チャンドラー「大いなる眠り」である。村上春樹の新訳が出て久しいが、教授が手にしているのは59年初版の双葉訳のほうであった。せっかくの読みかけだからまずこちらを片づけしまおうと思って、教授は「大いなる眠り」を先に読みだした。

教授は搭乗案内のアナウンスで目を覚ました。どうやら「大いなる眠り」を読んでいるうちに本当に眠ってしまったようである。年齢を重ねて男の哀愁を漂わせる「長いお別れ」のフィリップ・マーロウを教授はすごく気に入っていたが、まだ若くて血気盛んな、口を開けばよくわからない冗談しか喋らない「大いなる眠り」のマーロウは受け入れがたかった。それに古くさい訳と、単純でつまらないくせにどこかとらえどころがなくてなかなか頭に入ってこないストーリー展開が眠りを誘ったのだ。ひょっとしたらこれが題名の所以なのだろうかとさえ教授は思った。
「こいつは後回しだ!」と叫んで教授は「大いなる眠り」を叩きつけた。
「うふう」と若きフィリップ・マーロウが悲鳴をあげた。

機内で気を取り直した教授はさっそく「真夏の方程式」を開いた。お、おもしれー。最初からすらすら読み進めることができる。眠くならない。教授は東野圭吾の、台本のト書きのような文体、舞台演劇のような肩に力が入りがちのセリフ回し、どうだといわんばかりの自信満々ぶりが鼻につく文章があまり好きではなかったが、今はそんなことはどうでもよかった。ただ楽しめればいいのだという気持ちのほうが強かった。さすが日本の大衆文学を代表する大御所である。一方、チャンドラーはやはり外国文学なのだ。つまり、一応日本語に訳してあるとはいえ、やっぱりその実態は英語であり、日本人の読み手はある程度の覚悟が要求されるのだ。教授はそのことを痛感した。あれ、俺って日本人だっけ? いや、容姿も心も今ではすっかり日本人になりきっているはずの教授であった。

この本を購入する前に、原作を先に読むことの、映画を観る目に及ぼす悪影響についていろいろと心配を重ねた教授であったが、原作を先に読む場合にも、そこにはまたいろいろなパターンが存在するのではないかとふと思った。「容疑者Xの献身」では何も知らずに原作を読んだあと、時間が経ってから映画を観たので、イメージのギャップに苦しんだ。しかし今回は、即座に映画を観るのが前提の読書である。映画のキャストもすでに頭に入っている。そこが「容疑者Xの献身」のときとの大きな違いだった。文章を読みながら、すでに教授の頭の中では、杏が、前田吟が、風吹ジュンが動き回っていた。もっとも草薙の部下として活躍するのは、原作では岸谷美砂ではなくてまだ内海薫だから、教授の頭の中で動き回っているのは吉高由里子ではなくて柴咲コウだった。

教授がこれまで東野圭吾を読みながら頭に浮かべていたのは、顔にあまり特徴や表情のない無名の舞台俳優たちが演じている姿だった。それはたしか、小説だと思って読んでいたら舞台俳優たちが演じている作中劇だったというオチの初期作品があったと思うのだが、そのことも少なからず影響しているのだと思う。いつも登場人物が類型的で、ひょっとしたら人物の書き分けが苦手で苦労しているのではないか、という印象を教授は持っていた。もっとも、これだけの多作であれば人物造形に苦労するのは当たり前のことであるし、登場人物が類型的であれば逆にストーリーが理解しやすくて読みやすくなるというメリットもあるだろう。

しかし多作家にしてみれば、その作品の文学的な出来不出来を別にすれば、ドラマや映画とのタイアップはメリットの方が大きいのではないか。書く側にとっても、実際に福山雅治や北村一輝の顔を思い浮かべた方が書き進める分にはやりやすいに違いない。読む方も既知の役者の顔や声を思い浮かばればいいのだから大助かりである。もちろん、それが本来の正しい文学の読み方なのかと問われれば、教授は即座にノーと答えるだろう。

あっという間に、半分ほど読み進めたところで飛行機は羽田空港に着陸した。一気に最後まで読み終えてしまいたい欲望を無理やり抑え、教授はエージェントの待つ大宮へと向かった。

果たして教授は無事に任務を遂行できるのか。次回、舞台はいよいよ大宮、教授、真夏の方程式で号泣す その3大宮編に続く。

教授、真夏の方程式で号泣す

■その1 千歳編
■その2 機内編
■その3 大宮編
■その4 再び機内編
■その5 神戸編
■続・教授の真夏
■続々・教授の真夏
■続々々・教授の真夏
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2018/07/17

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