2013/07/12

教授、真夏の方程式で号泣す その1千歳編

真夏の方程式

「よりによってこのクソ暑いときに、もっとクソ暑いところへ行くはめになるとはな」と、スミルノフ教授はため息をついた。

おりしも梅雨は例年より早く明け、すでに関東地方では猛暑日が続いているというニュースが毎日のように報道されていた。思い出されるのは20年ほど前の今ごろ、今年のような連日の猛暑のさなか、前橋に行ったときのことである。教授はそのとき真夏でもめったに25℃以上にはならない釧路に住んでいたこともあり、35℃の屋外には5分と出ていることができなかった。街中は冷房の効いた店に一軒一軒入ることで涼みながら移動したものである。

教授の今回の特殊任務は、現在彼が協力している秘密組織「天使の眼差し」のエージェントと大宮で落ち合い、活動の進捗状況について情報交換することであった。奇しくもその日は、祝杯とともにリーダーへの忠誠を誓わなければならない、その組織にとって重要な意味を持つ特別な日であった。

教授は千歳空港のロビーで立ち止まり、今回の目的地である大宮で、もしも待ち合わせまでの時間を持て余してしまったらどう過ごそうかと思案していた。日本野鳥の会札幌支部秘密会員でもある彼は、たまに道外の探鳥会に潜入して調査してみるのもいいかもしれない、と一度は思った。ところが埼玉支部の予定を調べてみると、その日に探鳥会が行われる場所は熊谷だった。あの熊谷である。今年こそ館林や甲府の後塵を拝してはいるが、それでも日本有数の猛暑地であることにかわりはない。ためしにネットで過去の熊谷探鳥会の様子を探ったところ、夏はあまり鳥の出ない時期であり、早々と暑さにやられて、予定時間前に解散することがしばしばのようであった。地元民でさえ耐えられない暑さの野外をただ歩きまわるなど、教授にしてみればわざわざ熱中症になりに行くようなもので、狂気の沙汰以外の何ものでもないと思わざるをえなかった。

ふと顔を上げると文教堂の看板が目に入った。入り口の一番目につくところに、福山雅治の顔が並んでいる。「真夏の方程式」の文庫本だった。ちょうど映画が公開中であることを、教授はそのとき初めて知った。教授は、一緒に学会に行くと必ず当地で映画を観る同僚がいたことを思い出した。せっかくの旅なのに観光にも行かず映画館で時を過ごす彼が、教授にはひどく無駄なことをしているように見えた。しかし、自分はふだん映画館に行く習慣の無い人間なのだから、このような機会でもなければ、もう二度とこの先この映画を映画館で観ることはないだろう、そう考えると、旅先で映画を観ることもなかなか良いアイデアのように思えてきた。ふと目を閉じて、戸外の猛暑をよそに、薄暗くて、程よく冷房の効いた映画館で、肩の凝らない大衆映画を観ている自分を想像する。すると、それがますます魅力的なことのように思えてきたのである。

教授は映画「真夏の方程式」を観ることをほとんど決心していた。ただ問題は、彼がまだ原作を読んでいない、ということだった。ミステリーの場合、映画が先か原作が先かは大きな問題になりうる、と教授は考えていた。ミステリーを結末まで読み進める原動力は、提示されるフーダニット、ハウダニット、ホワイダニットといった謎の解決にある。もちろんミステリーの魅力がそれだけとは限らないし、そもそもミステリーという狭い枠組みの中で小説を書いているつもりはない、というのが東野圭吾氏のスタンスのようだ。だが教授は、東野作品の中で意図的にミステリー色を廃したものはあまり好みではなかったし、ガリレオシリーズは本質的にミステリーだと捉えていたので、もし映画を先に観てストーリーを知ってしまえば、原作を読み進める推進力を失うどころか、ともすれば読もうという気さえ起きなくなる恐れがある、と考えていた。ならば読まなきゃいいのではあるが、ひとつの作品を(しかもベストセラーを)新鮮な驚きとともに読むことができる機会を失ってしまうのは、それはそれでとても惜しいことのように思えたのだ。

もちろん原作を先に読んでしまえば、今度は映画を新鮮な目で観ることができなくなる。教授は映画「手紙」を原作を読まずに観たので、素直な気持ちで観ることができた。特に玉山鉄二の演技に完全に敗北した。他作品のどのような役柄であれ、玉山鉄二を見かけるだけで涙が浮かぶという現象に悩まされているほどである。おそらく教授の中枢神経内で、側頭葉、特に右側頭葉の玉山鉄二を全体認識する部位と、涙腺を刺激する三叉神経あるいは自律神経系統とのあいだをつなぐ神経回路が、新たに形成されてしまっているのであろうと思われた。

もっとも、原作を読んでいないからといって、必ずしも映画を全くの先入観なしに観ることができるとは限らない。たとえばここに、原作を読まなかったゆえに映画「手紙」をてっきりミステリーだと思い込んで観てしまった人の記録がある。

■ふでやすめ |映画『手紙』を疑って見るとこうなる

これを教授は、世のネット内にあふれる映画「手紙」の感想文の中でもっとも異彩を放った秀逸なものとして評価しており、ぜひ一読をお薦めしたいと考えている。

原作を先に読んでから映画を観る場合、頭の中で自分勝手に作られたイメージと、実際の映像とのギャップに苦しむはめになる可能性も危惧される。教授がそういう経験をしたのは、奇しくも映画ガリレオシリーズの前作、「容疑者Xの献身」だった。教授は映画化のだいぶ前に、たまたま知人に薦められて原作を先に読んでいた。頭の中でできあがっていた数学者・石神のイメージは、少なくとも堤真一ではなかった。おそらく古くから原作を読んでいた読者の多くも、石神役に違和感を持ったのではないだろうか。石神はもっと醜男で無骨で不気味であるはずだ。当時は自分のイメージに合った特定の役者を思い浮かべることができなかったが、今考えると田口浩正、斉藤暁、もう少しいい男にしたとしても村田雄浩あたりならばまだ許せただろう。とにかく堤真一ではいい男過ぎるのだ。そればかりが気になり、教授はあまり映画を楽しめなかった。

だがあれから何年か経ち、そのあいだ原作は一度も読み返していない一方、映画は再びテレビで観る機会が何度かあり、不思議なことに観るたびにおもしろくなっていった。やがて原作を読んだときに作られた頭の中のイメージはだんだんと薄れていき、教授の心はむしろ堤真一の怪演に奪われるようになっていった。三度目か四度目に観たとき、ついにラストシーンで涙が浮かぶようになった。今では、あれはまさに堤真一の映画なのだと確信するまでになったのである。

自分をそう思わせるまでに至らせた背景には、福山雅治の人徳があるのではないか、と教授は考えていた。たぶん織田裕二ではうまくいかないだろう。というのは、ミステリーでの探偵役というものは往々にして主役ではなく、主役のように見えたとしてもその実態は狂言回しだからである。ミステリーに限らず、主役が自らを主役と考えないことでうまくいく場面というものが、少なからず存在するのではないだろうか。教授は福山雅治が普段からそういう心得をしていると思わずにいられなかった。カンヌ映画祭での監督の名誉を喜ぶ涙、あるいは「真夏の方程式」における前田吟や杏の演技に涙したという言動は、彼が自分よりも人をたてる人物だという印象をより強くする。いったんそういう人だと思い込んでしまうと、コンサートを見ていても、今剛や井上鑑など先輩ミュージシャンに対する畏敬の念が醸し出されるのを感じずにはいられなくなるのだった。

ガリレオシリーズが当初は佐野史郎をイメージして書かれたことはよく知られているが、今では東野氏自身が福山雅治を念頭に書いており、作中では内海薫が福山雅治を聞きながら捜査するまでになっている。湯川学役に福山雅治というのは、もう国民の合意だといっても過言ではないだろう。もしもいまだに福山雅治以外をイメージしてガリレオシリーズを読んでいる人がいたとしたら、そんな珍しい人にはぜひ会ってみたい、と教授は一瞬思ってしまったが、慌ててすぐに撤回し、いや、やっぱり知らない人には会いたくないし話もしたくないし、ましてやそんな変わった人とは友達になんか絶対なれないや、と発作的な拒否反応が現れ始め、心拍数が増加し、呼吸が荒くなり、手足はしびれ、吐き気までもよおしてきた。教授に対人恐怖の兆候が現れ始めたのは、今を去ること約20年前のことだといわれている。

「奴はずいぶん大人になり、好人物に育ったな」と、教授は約20年前にススキノで偶然出会った若き日の奴の姿を思い浮かべながら思った。あのバブルのさなか、お気に入りの美人ホステスを何人もはべらかせて札束をばらまいていた教授は、いつのまにか自分の周りから誰もいなくなっていることにふと気づいた。「がんばってくださーい」などなどなどの黄色い歓声があがる人垣の中には、上下を黒革のパンツとジャンパーで包み、長い足を見せびらかすように放り出してソファに座り、自意識過剰なまでのキザな動作でグラスを傾ける奴がいた。教授は奴と目が合ったが、それはほんの一瞬のことだった。もちろん目を逸らしたのは奴の方である。そのとき、「俺って孤高のロッカーだから簡単に近づくな、この凡人どもが」というテレパシーが彼から届いた。

「それが今じゃ奴が国民的な人気者で、世界的に高名だった私が世を忍ぶ惨めな仮の姿だ」と、教授は自嘲するように薄笑いを浮かべた。教授があまり人と合わなくなり、その後コミュケーション不全に陥っていったのはあれからほどなくしてのことだった。「ふん、あのときチョーモンインに通報すればよかったのだ」と、また教授の脳神経細胞の別の部分が活動しかかった。いや、いかんいかん、東野圭吾の話だった、と教授は頭を両手でかかえて左右に激しく振った。でも、西澤保彦好きの人となら神麻嗣子役についてちょっとだけお話してもいいかなと、ほんの少しだけ思った。

発作的な情動の発露と思考の錯綜がようやく落ち着き、頭からゆっくり手を離した教授は、その手に目の前の文庫本「真夏の方程式」をとって見た。これ、買おうか、どうしようか。あれ、どうして迷ってるんだっけ? そうだ、原作を先に読むべきかどうか、という話で悩んでいたのだった。やはり原作を先に読むべきだろう。「容疑者Xの献身」のときのことを鑑みても、原作は一度きりだったが、映画は何度も観ている。「手紙」にいたっては映画は何度も観ているが、原作は読もうと思ったことさえない。つまり教授にとって敷居が高いのは、映像よりも活字だということである。映像を先に見てしまえば、活字の敷居はより一層高くなるであろう。これは多くの人にも当てはまるのではないだろうか。もし当てはまらないのであれば、それは余程の活字中毒者か、整合性を検証するために再読するミステリーオタクに違いない。

そのとき、背後から手が伸びてきたので、教授は少し身体を傾けてその手を避けた。黒髪をボブカットにした背の高い女だった。女は文庫本を一冊手に取ると、カウンターに向かった。教授は彼女の正体を見抜いていた。彼女はナターシャといって、教授がかつてロシアで別の秘密組織に属していたときの上司だった。つまりナターシャにしてみれば教授は組織の裏切り者ということになる。なぜ今ナターシャが日本にいるのか、教授は驚きを隠すことができず、顔面は蒼白となった。ゆっくりと振り返ってもう一度確認したが、間違いはなかった。日本人の中で目立たぬように髪を黒く染めてはいるが、くっきりとした顔立ちは隠せない。ロシア人のナターシャである。まさか教授を狙って送り込まれた刺客だろうか。教授の胸は高鳴った。こちらは何年も前に手術を繰り返し、その容姿はすっかり日本人に変わっているし、もちろん搭乗券の名前もなりすましている日本人のものである。こちらの正体がばれるはずはない。彼女は気づいていない様子である。だがしかし、気づいていないふりをしているだけかもしれない。教授は動揺を悟られないように立ち読みをするふりをして青ざめた顔を隠し、ナターシャが去りゆくのをじっと待った。

果たして教授は無事に大宮で任務を遂行できるのか。忍び寄るナターシャの影を振り払うことはできるのか。次回、教授、真夏の方程式で号泣す その2機内編に続く。

教授、真夏の方程式で号泣す

■その1 千歳編
■その2 機内編
■その3 大宮編
■その4 再び機内編
■その5 神戸編
■続・教授の真夏
■続々・教授の真夏
■続々々・教授の真夏
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2018/07/17

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