2013/01/12

ヨウコ先生のビンタをくらったハトリ君の記憶

小学生のとき、なんかの委員会に出席した。

僕と一学年下のシイナさんという女の子が向かい合わせに座ってみんなが集まるのを待っていた。窓際に座っているのは細い目をしたヨウコ先生である。ヨウコ先生は髪が短くてスポーツが得意で、いつも緑色のジャージを着ている。きびきびした男みたいな喋り方をする先生だった。

集合時間を少し過ぎたころ、遅刻魔のハトリ君が「やべーやべー忘れてた」とへらへらしながら部屋に入ってきた。 そしていったん椅子に座ったのだけれど、となりがシイナさんだと気づくと、「オェー」といいながら立ち上がり、あわてて僕のとなりの席に移った。

そのとき、ヨウコ先生の顔がみるみるうちに真っ赤になった。

「ハトリ君、今どうして席を移ったの?」

いつもは冷静なはずのヨウコ先生が、そのときはハトリ君をにらみつけて震えていた。ハトリ君は「いや、別に」とうつむきながら何かをモゴモゴといった。 これほど怒っているヨウコ先生を見たのは僕は初めてだった。

「シイナさんの指が足りないから席を移ったの?」

ヨウコ先生の声はもう泣き声が混じって裏がえっていた。
指? シイナさんの指だって?
僕はそれまでシイナさんの指のことなんか何にも知らなかった。
普段から少しようすがおかしい子だとは思ってたけれど、彼女の指をじっくり見たことなんてなかった。

シイナさんは机に肘をついて、手の甲側に反らせた長い指に顎をちょこんとのせ、どこか遠くを見つめてぼうっとしていた。ヨウコ先生の声も全く耳に入っていないようすだった。僕はそのとき初めて、シイナさんの指が三本しかないことに気づいた。その指はとても長くて美しい、しなやかなカーブを描いてはいたけれど、数は足りていなかった。

バシーンと音がした。

ヨウコ先生が急に立ち上がってハトリ君にビンタしたのだ。ヨウコ先生の腕はまるでサイドスローのピッチャーのように水平に空を切り、その手のひらがハトリ君の左頬に見事に命中した。

ハトリ君は床に転げ落ちて真っ赤に腫れた左の頬をさすっていたけれど、笑いながら「うひょー、いってー」とか言いながら、相変わらずへらへらとしていた。

でもシイナさんはまだ肘をついていて、とてもつまらなさそうな顔で、ぼうっとハトリ君を見ていただけだった。

ヨウコ先生は必死に涙をこらえていたけれど、それでも涙はどんどん増えてビー玉ぐらいの大きさにまで膨れ上がった。涙でできたその球体はまるで凸レンズのような効果を生み出し、目が細くていつもは見えないヨウコ先生の瞳を拡大した。そのとき僕は初めてヨウコ先生のキラキラと輝く瞳を確認した。美人だ、と僕は思った。でもそれは一瞬のことで、そのあとすぐに涙が二個のビー玉となって床に落ちると、ヨウコ先生はいつもの男っぽい顔に戻っていた。僕は転がってきたそのビー玉を拾ってポケットに入れた。

委員会が終わって僕が部屋を出ると、そのあとからハトリ君もすぐ出てきた。
「いやー、いたかったー。今までで一番痛かったかもしんないな」
ハトリ君はニヤニヤしながらそう言った。むしろ喜んでいるようにさえ見えた。
「あ、ねえ、これ見て見て。ビンタされたビンタされた」
ハトリ君は誰かを見つけては自分の真っ赤に腫れたほっぺたを自慢気に見せながら歩いてた。

それから何日か過ぎ、母の運転する車に乗せられて町に行ったときのことである。交差点を曲がったところで警官が笛を吹きながら飛び出してきて母の車を止めた。

母が手動で運転席の窓を開けると警官が覗きこんできて、「いま赤信号だったでしょ。信号無視ですね」と冷たく言い放った。身に覚えの無かった母は、「そんなことはありません。私はちゃんと青なのを確認してから曲がりました」と反論した。毅然とした母の態度にちょっと怯んだ警官は、「じゃあ、黄色だったでしょ」と言った。今となってはどうしてだか思い出せないのだが、そのとき母はずいぶん虫の居所が悪かったようで、「赤じゃなかったなら黄色だとは何ごとか。そんなあやふやなことを言うのは、そっちがちゃんと見ていなかった証拠じゃないか」というふうなことを言って声を荒げた。

それからしばらく繁華街のど真ん中で母と警官の大声による応酬が続いたものだから、気がつけば周りには人垣ができていた。僕は大人のいざこざには全く関心が持てなかったので、どんどん集まってくる野次馬を車の窓から面白がって観察していた。そのとき、男の子の手を引いたまま微動だにせずに無表情でこちらを見つめる太った女の人が目に留まった。そのあまりの無表情ぶりが僕の視線を吸い込んだのである。あれほど完璧な無表情を僕はそれまで見たことがなかった。

「あっ、スミ君!」と、男の子が叫ぶのが聞こえた。女の人の顔から視線をゆっくりと移動させると、その手に引かれていたのは、にこにこしながら僕を指さしているハトリ君だった。ハトリ君はいつもと変わらぬくったくのない笑顔でこちらに近づいてきた。

「あっ、ハトリ君!」と叫び返しながら、僕は急いでハンドルを回して車の窓を開けた。
「スミ君も町に買い物にきたの?」とハトリ君は嬉しそうに言った。
「うん」なにげなくポケットに手を入れるとビー玉が二つ入っていた。「これ、ハトリ君にあげるよ」といって僕はそのビー玉を手渡した。
「うわ、すっげーきれいなビー玉だな。町のどこで売ってたの?」とハトリ君は訊いた。
「いや、拾ったんだけどさ」
「ふーん」
そのときにはもう僕もハトリ君も、ヨウコ先生やシイナさんのことは頭の片隅にさえ残っていなかった。


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2020/05/20

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コメント
きれいな話やなあ。
  • ねこ
  • 2013/03/30 4:15 PM
>ねこ 短編は毎回無反応がお決まりなのでびっくりしています。ありがとうございます。
  • スミルノフ
  • 2013/04/05 3:01 PM
コメントは終了しました。

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