2012/03/20

ザンビの記憶

「この試薬ラベルはレッドだ。いいね?」
僕といっしょに実験をすることになったジョージが、僕の英語力を心配して実験前に色の呼び方を確認しておきたいと言い出した。
「レッドなんかだいじょうぶだよ。簡単だ」
「これはブルー」
「おいジョージ、ブルーもだいじょうぶだって」

ずいぶんばかにされたものだと思ったが、彼らはただ確実性を高めたいだけであって、このような確認作業のときに日本人が顕にしがちなメンツとか自尊心みたいなものは彼らには希薄である。極端な例だと、ボス(教授)が原稿のスペルチェックを僕みたいな平研究員(しかもオリエンタル)のところに平気で持ってきたりする。平社員が社長のチェックをするようなもんだ。日本じゃまず考えられない。僕みたいなものがあなたのように高名な教授の原稿なんかチェックしたりできませんよ、とかいう僕の怪しげな英語をウザそうに遮り、ボスは単なるダブルチェックだよと言い捨てて原稿を置いていくのだ。

ジョージとの色の確認作業は楽勝で終わると思われたが、最後の最後で僕はジョージの言葉を何度も繰り返さなければならないはめになった。
「これはラメンだ」
「ラメン?」
「そう、ラメン」
ラメン――初めて聞く色だった。ジョージが指さしたのは薄い黄色である。このような薄い黄色のことをアメリカではラメンというのだろうか。ラメンってなんだろう、花の名前だろうか。
「あの、もう一度ゆっくり発音してくれない?」
「いいよ。ラ ・ メ ・ ン」
なんど聞いても分からない。そのうち、僕はまさかとは思うけどラーメンの黄色い麺を思い出した。
「ラーメン?」と僕は箸で麺をすくう仕草をしながら言ってみた。
「はぁ……」とジョージはため息をついて目をつぶったまま動かなくなった。

それからしばらくして、ラメンの正体が判明する。
それはlemon、すなわち日本でいうところのレモンだったのだ。
そりゃあおまえの耳がおかしい――と、お思いになられるかもしれないが、どうかその判断は、これを聞いてからにしていただきたい。

■lemon の発音

イギリス人のレモンはたしかにレモンと聞こえるけど、アメリカ人の発音はだらしなくて、とてもレモンには聞こえない。こりゃあラーメンと聞き違えても無理はないね、と言ってくれる人がどうか大勢いることを心から願う。
そしてこのときから僕の中で、レモンは発音の難しい英単語第三位にランクインしたのだった(ちなみに一位はcelery、セロリである)。

僕らの実験室の棚には古いチューナーとスピーカーが測定機器などと一体になって収納されており、実験はFMラジオを流しながら行うのが習慣となっていた。FMはチャンネルごとに流れる音楽のジャンルが全く異なるのだけれど、我が実験室は若い白人男性が多かったせいか、いつもオルタナティブがかかっていた。いつまでもカート・コバーンの死を悼むそのチャンネルは、いまだに日に何度もスメルズ・ライク・ティーン・スピリットをかけていたのだが、そのときスメルズ・ライク……と同じぐらいの頻度でかかりまくっていたのがアイルランドのこのバンドのこの曲だった。

■ The Cranberries - Zombie
zombie

「ザンビっていったいなんだい?」と僕はチーフ・テクニシャンのスティーブに訊いた。
「ザンビっていうのはなあ、んー、おまえに分かるように説明するにはどう言ったらいいかなあ、まあ簡単にいうと、一回死んじまったのに死体のまま蘇ることだ。ほら、よく映画とかにもなってるんだけどなあ、見たことないか?」
僕は少し考えてからようやく気づいた。
「分かった! ゾンビのことか!」
「そうそう、ザンビだ」

このラボの教授、すなわち僕のボスはアイルランドの移民の子孫で、それはもちろん研究業績がすばらしいということもあるのだが、その容貌がおよそ研究者らしくないということにおいても、この業界ではわりと有名だった。長く伸ばした白髪にエメラルドグリーンの瞳を備えた顔はロックスターみたいだったし、原色のカラーシャツに黒いスーツ、ピカピカに光り輝くエナメルのシューズは大金持ちのハリウッドスターを連想させた。

いつも会議に学会に講演にと引っ張りだこのボスだったが、その日は珍しく外出の予定がなかったので、丸一日かけて何匹もの犬を手術した。

犬の術後のケアはだいたい僕の役目である。動物センターの手術室から実験室に帰ってきた犬たちは、時間が経つとともに徐々に回復の兆しを見せ、ヨダレ混じりの呼吸音がだんだんと荒く大きくなってくる。みんな腰を抜かしたようなかっこうで糞尿を垂れ流している。

「はっ! まるで東京サブウェイだな」

ボスは、自分は今洒落たことを言ったぞといわんばかりの得意気な顔を僕に向けた。

「ふん! 全くデンジャラスな国だ!」

ほんの二ヶ月前、あの大地震が起きた後、ボスはすぐに僕を部屋に呼びだし、ひどく深刻な顔をして、お前には被災した家族や知人はいないのかと聞いてくれた。彼らは天災のときにはまず被災者への憐れみを大いに顕にする。

だが、テロリズムに対してはまず敵意を剥き出しにする。二ヶ月前に心から僕を心配してくれたボスは今、まるで犯罪者でも見るかのような蔑んだ目つきで僕を見ているのだ。ボスに限った話じゃない。二ヶ月前は見知らぬ人までもが寄ってきて僕を抱きしめて悲しんでくれたというのに、もうあの大地震はすっかり忘れ去られ、今じゃ日本人というだけで毒でも持ってるんじゃないかという目で見られる始末だ。

「デンジャラス・シティ! トーキョー!」

そのとき、犬たちが覚醒しだし、うつろな目をしたまま立ち上がろうともがいていた。どうせふらつくのだからそのまま寝転がっていればいいものを、あいつらはばかだから本能的に立ち上がろうとするんだ。そして立ち上がってはガシャーンと檻にぶつかってまたひっくり返る。その繰り返し。

「こういう姿をなんていうか知ってるか。ザンビだ、ザンビ」 そしてボスは、あとはよろしくと言って帰っていった。

ザンビ、ザンビ、ザンビ……
Zombie, zombie, zombie......
ザンビはあんたが作ったんじゃねーか!
What's in your head, in your head......

僕は舌打ちした。

あのとき僕は、愚かな一部のものが犯した罪のために、自分と自分の国がばかにされていると感じた。僕は犯罪者を恨んだ。ボスのことも、そのときはひどい人だと思った。
だけど、僕がボスに反抗心を抱いたのはこのときの一回きりだった。ボスが蔑んだ目で僕を見たのもこのときの一回きりだ。その後ボスは僕を見込んでよく仕事を回してくれるようになったし、数年後に僕が帰国したあとも何度も来日して僕を訪ねてくれた。
一回きりの蔑んだ目だったからこそ、あの目は僕にとって忘れられないものとなった。

他のスタッフたちも、犬を僕に任せて帰っていった。他の研究室や廊下も真っ暗になり、このフロアにいるのは僕と犬たちだけになった。僕と犬たちがいる実験室の照明だけが光光と輝いている。犬たちはやっと四本の足をしっかりと地につけて立てるようになったが、いったい何が起きたのか分からないというような顔をしていた。もうすっかり目覚めて立っているのに、口から挿しこまれたチューブを通してシュルシュル呼吸しているのが滑稽で、僕は笑いをこらえきれなかった。苦しいのに笑ってごめんよ。だがよく考えれば相手は犬なのだから別に笑いをこらえる必要もなかったのだ。僕はよしよしといって気管チューブを抜いてやった。その瞬間、犬はまたゲホゲホと激しく咳をし、その咳が誰もいない夜中のフロアに響き渡った。僕は管を抜いて楽にしてくれた恩人なのに、犬は何をしやがるとでも言いたげな反抗的な目つきで僕を見ていた。

記憶シリーズは主に洋楽とアメリカをテーマにしたフィクションです。


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2020/07/26

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コメント
先生、お元気ですか? 最近、このようなゆるいのが好きになりました。http://chiwatora.blog7.fc2.com/ ・・・猫とチワワ・・・
  • サンディー
  • 2012/04/13 8:26 PM
>サンディーさん 動物写真にセリフつけて擬人化ドラマにするのは先生も昔よくやったものです(http://kayasumi.suemeweb.com/)。しかしけっこうめんどくさい作業です。このブログの人は犬猫への強い愛情、制作意欲、根気根性を有しているのでしょう。先生は老化とともにテキストを打つことすら億劫になりつつあります。
  • スミルノフ
  • 2012/04/15 12:18 AM
億劫、と言いつつ長々しいですね…私は4月下旬でもいいと思っています。
  • あみーゴ
  • 2012/04/15 5:42 PM
確かに聞き取り辛い。どう聞いても、発音が曖昧すぎてラーメンだか、羅門だかわからない。 「私はラマンが好き」と言わないように気を付けなきゃいけないなw
  •  
  • 2012/04/25 10:37 AM
コメントは終了しました。

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