2011/02/09

どらやき(柳月) 喜嶋先生の静かな世界

皆さん、こんにちは。毎度おなじみ真面目なスイーツブログをやっておりますスミルノフ教授です、なんて書き出しもそろそろ飽きてきちゃったなあ。

どらやき(柳月)

本日はこの写真の商品についてのエントリーですけど……おや、読者の方から手紙が届いているようです。


スミルノフ先生、いつもスイーツブログを楽しく読ませていただいてます。僕はうだつの上がらない町医者をやっている者です。でも、これでも昔は先生のような立派な研究者を目指していたことがあるんですよ。

最近、先生がおすすめの柳月のどらやきを食べながら、「喜嶋先生の静かな世界」という本を読みました。すると、昔の研究生活の思い出がまざまざとよみがえってきてしまい、どうしても誰かに話したくて我慢できなくなりました。そこで、敬愛するスミルノフ先生ならば聞いていただけるのではないかと思い、筆をとったしだいです。

僕が初めて研究というものに携わったのは、アメリカのとある臨床医学教室です。アメリカのボスは、ある特殊なin vivoの実験系を確立した人でした。彼独特の個性的な実験系なので、少し条件を変えたり、使う薬物をとっかえひっかえするだけで、オートマチックにいくつも論文ができあがる仕掛けでした。僕はそのうちのいくつかを、言われるがままにこなせばいいだけでした。そのときは研究ってそういうものだと思ってました。

僕は英語が苦手だったので、研究のプレゼンテーションに関してはボスの厳しい特訓をうけました。アメリカ人というのはほんとに大袈裟で気取ったやつらばかりで、ときには後ろ手を組んでステージの上を行ったり来たり歩き回りながら、大きな手振り身振りで自分がいかにすごいことをしているかアピールします。みんながスティーブ・ジョブズみたいなものです。僕も聴衆の注意をひく決め台詞や、言葉の一言一句に対応する目線の位置、表情、手振り身振りまで実に細かく指導されました。もちろん小学生のころからそういうプレゼンテーションの訓練を受けている彼らには敵うはずもありませんでしたけれど。

そうやって積極的に自分をアピールし、莫大な研究費をゲットし、人件費も惜しまず投資し、力づくでたくさん成果をあげ、そしてまた研究費をゲットする、みんながみんなそうとはいいませんが、僕が見聞きした限りではそれがアメリカの研究のやり方という印象でした。僕はボスのおかげで、アメリカのわりと有名な雑誌にいくつかの論文を載せることができました。

そのとき身につけた研究方法や発表方法は、帰国してからずいぶん役には立ちました。普通の臨床医学の学会では、もう恐れるものは何もなくなっていました。でもそんなことが大事なのだろうか。大事なのは大事なんだろうけれど、どこかに本質的なことを忘れて置いてきてしまっている。そんな後ろめたさがずっとつきまといました。

もちろん、そんなことはみんな気づいているのでしょう。気づいていながら、うまくやっていく、それが大人というものです。もしも僕の先輩たちがこの文章を読んだら、あいつはあいかわらず子どもだと笑い飛ばすことでしょう。

だけど、「喜嶋先生の静かな世界」の中の喜嶋先生の言葉に、僕はやっぱりそうだったのかと感動を抑えずにいられませんでした。語り部である橋場くんが学会発表の練習をしたあと、原稿の棒読みになってしまったことを反省するシーンがあるのですが、喜嶋先生は「棒読みで構わない、言葉は、内容がすべてであり、あがっていようが、読み間違えようが、論文の価値にはなんら関係ない」と言い切ったのです。

「喜嶋先生の静かな世界」には到底及びませんが、僕もそれにやや近いシチュエーションに置かれたことがあります。僕はアメリカでの研究生活を終えたあと、帰国して普通に臨床医をしていました。そのまま普通の臨床医になるんだろうと思いながらぼうっとしていたとき、高校の先輩でもあったT教授から生理学教室に来ないかと誘われました。そこで「喜嶋先生の静かな世界」のような、夢のような数年間を過ごしました。臨床医学の学会では味わえない、純粋な学問を追求する人々の姿がそこにはありました。

橋場くんの言うように、これはすごく重要なことなのですが、自分のやっている研究がいま世界でどのへんに位置しているのか、そして自分は何を目指しいったい何合目あたりまで登ってきているのか、そういう自分の立ち位置が分かっているということは、研究者にとって最も大切なことのひとつです。僕の垣間見た生理学の世界では、それが分かっていない人は学会ですぐに見抜かれて、たちまちボコボコにされていました。ひどいときには、座長と会場の人々だけで白熱した議論が起こり、発表者が発言しようとすると「君は何も分かっていないから黙っていなさい」と怒られて口を挟むことが許されなかったことさえありました。

大勢が議論に参加していても、ほんとうに理解して議論しているのは数人だけということもありました。もちろんそんなことは僕には分かりません。僕には他の人全員がとても頭の良い人に見えました。そばにいたT教授が、今のをほんとうに理解したのは彼と彼だけだよ、と教えてくれたので、そうなんだと思っただけです。だけど、議論を聞いていればその人がどこまで理解できているのかがさらけ出されてしまうということは何となく分かるようになりました。

僕も有名な研究者たちを前に発表することが何度かありました。臨床医学の学会で発表するときとは比べ物にならないぐらい緊張しました。アメリカでもこんなに緊張したことはありませんでした。あるイオンチャネルの発見者として世界的に有名なN先生に質問されたことがありました。それは、はたから見ればごく普通の単純な質問でしたが、僕はその質問に愕然としました。僕はそのときすでに、その発表内容の次の段階である、僕の研究テーマの核心に迫る実験を進めていたのですが、まだそのことは誰にも内緒でした。でもN先生の質問は、まさにその核心に迫る実験の結果を問う質問だったのです。僕はN先生がすべてを理解していることに驚き、その場で打ち震えました。ごくごく一般的な答えを装って、けれどもすべてを理解してしまったN先生だけには分かるように答えたつもりでしたが、その答えを聞いてN先生は「ほほう」と感心し、興味を示されたようでした。あとでT教授が寄ってきて、「ね、N先生ってすごいだろ」とおっしゃいました。

常日頃T教授は、「あせって中途半端な論文を書いてはいけない、いつまで『武士は食わねど高楊枝』でいられるかだ」とおっしゃっていました。ちょうどその頃、生命科学の分野では、ひとつの実験系だけで論文を書いてもレベルの高い雑誌に載せることは難しくなっていました。ひとつの仮説を証明するためには、ひとつの生理学的手法だけでは不十分で、薬理学、生化学、遺伝子工学など、様々な手法を用いて多角的にアプローチしないと認められないという潮流が来ていました。

だから僕は論文を完成させるのにずいぶん時間がかかりました。そして論文自体もかなり枚数の多いものになってしまいました。完成稿をある雑誌に投稿しても、門前払いで不採用になったり、審査員から無理難題をつきつけられたりし、そのつど書き直してまた投稿する、といったことを繰り返しました。

結果的にその論文は欧州の中堅雑誌に載りました。でも臨床医学の諸先輩方にはなかなか理解を得られませんでした。曰く、そんな長い論文をひとつ書くよりもいくつかに分けて小出しにした方が論文数を稼げるのに、薬の種類を変えれば同じような論文が何種類も書けるのに、だいたいお前のやった内容はいったい臨床の何の役に立つのか、あいつは基礎医学にいって趣味のようなことをしている、あいつは基礎医学にいって駄目になってしまった、などです。でも僕は個人的には自分の仕事に満足していました。

僕はそのまま生理学の研究者になることも考えましたが、結局は臨床医学の現場に戻りました。基礎医学の世界で食べていくには実績が足りないと思ったからです。もっと若手だったなら、実績が無くてもすばらしいアイデアさえあれば、国や財団などが研究費を出してくれる可能性があります。しかし、四十歳を超えるとそれ相当の実績がなければ自分の研究を推し進めていくことが困難になります。ですから、もしその道で生きていく覚悟のある若手研究者の方がいれば、僕にできる唯一のアドバイスは、若いうちにどんどんアイデアを出し、どんどん補助金や助成金を申請し、どんどん実験をして論文を書いて、そうやって若いうちにどんどん実績を積み上げてくださいということです。

でも実績が足りないなんていうのはただの言い訳です。僕がやめたほんとうの理由は、実力がないことを思い知らされ自覚したこと、もともと飽きっぽくて根性がないこと、もっと楽に生きたかったこと、それだけのことなのです。

僕は臨床医学の分野に戻ってから、ある大学で助教授になりました。でも結局、助教授として栄転した喜嶋先生が四十七歳で大学をやめたように、僕も同じような年齢で大学をやめました。しかし、やめた理由は喜嶋先生とは正反対です。僕がやめたのは、喜嶋先生のように、自分の研究のために、自分の崇高で静かな世界を守るために、ではありません。やっぱり、僕は白日夢のような理想を抱くだけの人間で、それを実現させる実力も根性も合わせ持たない、ただ楽な方に逃げてしまう人間に過ぎなかったというだけのことです。そうして「喜嶋先生の静かな世界」を読みながら、今日もまたいつもの白日夢の世界に逃避し安住している、何の役にも立たない人間なのです。

最後に、長々と駄文を連ね、先生の貴重なお時間をとらせましたことをお詫び申し上げます。先生の益々のご健勝を心から願っておリます。


先生もちょっと読んでみました。「喜嶋先生の静かな世界」は、おそらくまどろみ消去に収録されている「キシマ先生の静かな生活」の長編化ではないかと思われます。前半に橋場くん、喜嶋先生、櫻居さんの三人でスナックに飲みに行くエピソードが挿入されたので、橋場くんが喜嶋先生の家に行って酒が出てきてびっくりするシーンが(これは大事なシーンですけど)ちょっと不自然になったかな、と思いました。先生の誤読でしょうか。それにしても、喜嶋先生と沢村さんはどうなったのか、森博嗣の読者諸氏におかれましては、これを書かずに作家をやめられたら怒りますよね。関係ないけど、キシマ先生とカタカナで書くと、先生は何となく、野矢茂樹の無限論の教室に出てくるタジマ先生を思い出しました。タジマ先生もきっと静かな世界の住人です。あ、次回のスイーツもお楽しみね!

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コメント
読者って、セキなんたら って名前で投稿せれてませんでした?
  • zoo
  • 2011/02/09 9:13 PM
この4月から市中病院で後期研修をしつつ、某大学の生理学講座の社会人大学院生となることが決まりました。私は既に年齢も40近くなっており、今更研究者としてやっていけるとは考えておりませんが、やっぱり諦めがつかないんですね。でも、読者の方のお手紙を拝読して、やれるだけ頑張ってみようという気になりました。どうもありがとうございます。 ところで先生。スイーツブログはDMの私には目の毒なのでダイエットブログとかやってほしいんですが。
  • 仮性体臭
  • 2011/02/09 10:53 PM
スイーツブログは 本になりますね。 学問の静謐な世界、守りたいですね。 『喜嶋先生の静かな世界』 読んでみたくなりました。 上の方同様、わたくしも ピーマン尻対策を考えねばなりません。
  • ふう
  • 2011/02/09 11:01 PM
本、買ってみようかな。 それにしても、スィーツで引っ張りますね。
  • 眠狂四朗
  • 2011/02/16 8:58 AM
2月9日に30歳となりました、 麻酔科専門医めざし中の麻酔科医です。 6月に結婚式がありダイエット中なので。 すいーつは敵です!!
  • たま
  • 2011/02/17 11:58 PM
>zooさん あなたに暗殺指令を出しました。 >仮性体臭さん あの大学の先代の生理のI教授は40歳で循内医から生理学者に転身したそうです。だから私にもずいぶん基礎に戻りなさいとおっしゃってました。 >ふうさん 悪い本ではないと思います。ミスマニでなくても読めるし。 >眠狂四朗さん 駄作を恐れずまだ当分続けます。 >たまさん おめでとうございます。結婚式とダイエットがどうして関係あるのか、喜嶋先生や犀川先生は悩むでしょうね。
  • スミルノフ
  • 2011/02/18 11:58 PM
いま、すわんがんつかてーてると左房が糸でがったいしていた人のきんきゅうしゅじゅつをしておなかが空きました。 今からあらき(今年入る新人;鉄オタ、カメラオタ)とハッピーターンを食べます。 あらきが、せるせいばーの血を1リットル床にこぼしたので一個だけしかあげない予定です。
  • sss
  • 2011/02/19 9:02 AM
>SSSくん せるせいばーの血の件は聞くだけでもとても許せませんね。私からもきついお仕置きをしたいので、今度そのあらきくんとやらを連れてきなさい。
  • スミルノフ
  • 2011/02/21 9:36 PM
お久しぶりです。今、賞味期限OKの三重県産おたふくもちを食していました。 ・・ひょーどるがまけて引退しそーなので、あんさつ指令は私めが。・・初ターゲットは、「せるせいばー床に一リットルこぼしちゃったの件」でいいでしょうか。
  • S・Y
  • 2011/02/26 3:04 PM
>S・Y 君がやってくれるのであれば、まず間違いはないだろう。タップしてもボキっていうまでやっていいから。若いからすぐ治るだろう。
  • スミルノフ
  • 2011/03/01 10:21 PM
僕も読みました。読んでてときどき涙が出そうになりました。
  • puripuri
  • 2012/01/13 11:00 PM
やはり理系の研究生活経験者には評判がよろしいようです。ちなみに森博嗣は医学は理系じゃない、とか言ってますが、残念ながら先生もそう思います。
  • スミルノフ
  • 2012/01/14 9:07 AM
コメントは終了しました。

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