Happy Haruki ―いっそのこと10月初旬はコーラ味のお菓子を食べることにしたらどうだろう
僕は2011年のノーベル文学賞発表前日、どうしても村上春樹が受賞するような気がしたので村上春樹に関するエントリーを急いで書いた。
結果はご存知の通り受賞は逃したのだけれど、どうしてそう思ったかというのは、その二日後に書いた(Toll-like Haruki、2011年10月07日)。この年、僕はノーベル財団が日本を勇気づけるために日本人にノーベル賞をくれるに違いないと思いこんでおり、生理学・医学賞の有力候補だった山中先生が受賞しなかったので、残るはハルキしかないと考えたのだった。
それからも毎年ハルキは有力候補と報道されながら受賞を逃し続けた。今回に至っては、僕はもう絶対受賞は無いなと思うようになっており、コーラがけホットケーキを食べながら受賞の発表を待つハルキストたちのニュースを、自分でもびっくりするぐらいに冷めた気持ちで見つめていた。
マスコミもなんとなく、これって毎年こんなかんじで報道していいのだろうか、来年もこんなかんじでいいのだろうか、このままだと、ボジョレーヌーボーみたいな季節の風物詩的なニュースになっていってしまうかもしれないけれど、そうしていいのだろうか、という戸惑いを感じているのではないだろうか。
――ちなみに僕はもうノーベル賞はどうでもいいなという気分だ。知名度の高い馬が欲しいブックメーカにのせられているだけで、本当は候補ですらないのかもしれない。ノーベル賞に関わらず、ハルキの世界的な評価や知名度はすでに充分過ぎるぐらいだし、下手に受賞して、急いで数冊読んだだけのキャスターとかコメンテーターとかの軽薄な文言を聞くのもまっぴらだし。
*
そして世間も青色発光ダイオードのことはまだ少し話題にするにしてもノーベル文学賞のことなんかあっという間に忘れてしまった秋も深まるある日、僕は久しぶりに入った和菓子屋の「宗家源吉兆庵」で、その極めて洋風な装飾が目に留まり違和感を抱いた。
カフカとはチェコ語でカラスのこと、というのは本当なんだろうか? よく調べてみたら、ニシコクマルガラスのことだって分かったよ!
村上春樹の「海辺のカフカ」では、主人公の名前カフカがフランツ・カフカからの借用であると共に、チェコ語でカラスという意味をあらわすとされ、そのことが物語の中の重要なキーワードとなります。
でも本当に「カフカ」はチェコ語でカラスという意味なのだろうか、先生はちょっと心配です。
なぜかというと、先生の個人的な印象ではあるのですが、村上氏は鳥の名前、というか鳥そのものに、あまり興味がないと思えるからです。先生の知る限り、村上氏がその小説の中で鳥の種名を記載したことは数えるほどしかありません。「ねじまき鳥」に出てくる「かささぎ」ぐらいでしょうか。これだって種名というよりは「泥棒かささぎ」という曲の名前です。たまに鳥が登場したとしても、大概は「名前の知らない鳥」などの極めて素っ気無い記述が目立ちます。
そこへいくと、同氏の短編「中国行きのスロウ・ボート」をカヴァーした古川日出男氏はすばらしいです。
僕はたくさんの鳥を見る。ふたたびパンフレットによれば、多種の野鳥がこの庭園を訪れている。留鳥のセキレイ、カルガモ、ゴイサギ、カイツブリ、渡り鳥のホシハジロ、ハシビロガモ、オナガガモ、&c.。ただ残念ながら、僕が最多目撃数を誇ると感じた――だって経験したんだから!――野鳥については、ふれられていない。カラスだ。 種類を細説するならばハシブトガラス。知能派の、ふてぶてしい雑食主義者。
――古川日出男 二〇〇二年のスロウ・ボートより
これは主人公が浜離宮恩賜庭園を尋ねた場面。いったい古川氏はバードウォッチャーでしょうか。なかなかしぶい鳥たちの名前の連呼に続き、単に「カラス」ではなく「ハシブトガラス」について熱く語る古川氏です。先生は常々、たとえ鳥に興味はなくとも、ハシブトガラスとハシボソガラスぐらいは見分けて欲しいものだと考えていますが、ただ「カラス」とだけ記載することを許せなかった古川氏はただものではないと思います。この小説はこのあとさらにユリカモメも登場し、そしてハシブトガラスの駆除の是非についての熱い論議が繰り広げられることになります。
一方、その元になった村上氏の作品ではどうでしょうか。
図書館の玄関の脇にはどういうわけかにわとり小屋があり、小屋の中では五羽のにわとりが遅い朝食だか少し早い昼食だかを食べているところだった。(中略)そして煙草を吸いながらにわとりたちが餌を食べているところをずっと眺めていた。にわとりたちはひどく忙しそうに餌箱をつついていた。彼らはあまりにもせかせかしていたので、その食事風景は、まるでコマ数の少ない昔のニュース映画みたいに見えた。
――村上春樹 中国行きのスロウ・ボートより
このように、ただの「にわとり」でおしまいです。これがウィスキーだとかジャズだとかだったらここで細かいウンチクを出すくせに、鳥となると実に素っ気なく、白色レグホンも名古屋コーチンも出てきません。さらに、ただにわとりを見つめるだけで、特に興味があるとも思えず、どこかひとごとで、要するにどうでもいいようです。
本当に「カフカ」はチェコ語でカラスという意味なのだろうか。日本野鳥の会所属の先生としては、かなり心配になってきました。
そこで登場するのが前々回も参考にした「世界は村上春樹をどう読むか」です。この中で、チェコの翻訳者トマーシュ・ユルコヴィッチさんが、会場の日本人からずばりそのままの質問を受けてそれに答えています。
会場1(日本)「海辺のカフカ」のなかで、主人公のカフカという名前は、チェコ語では「からす」という意味だと説明されています。実際にはどうなんですか? ユルコヴィッチ からすには似ていますが、少し背が小さくて、色もちょっと違う鳥の名前です。しかし大きく言えばからすの一種ではあるので、逐語的に訳しても、チェコの読者に意味は伝わると思います(チェコ語のカフカkavkaは「コクマルガラス」を指す。作家名のカフカkafkaとは綴りは違うが、発音は同じ――沼野注)。
――「世界は村上春樹をどう読むか」より。
この記述で大方の読者は納得するでしょう。これ以上何を求めるの。しかし、野鳥マニアの先生としてはこれぐらいでは満足できません。この記述を頼りに、先生はチェコ語とカラス科の分類の旅に出たのでした(もちろんネットの世界での話ですけど)。興味の無い方のために先に結論を短く書いておきます。まず、ユルコヴィッチさんの答えですが、「カラスとは似ている、でも違う鳥、だけど大きく言えばカラスの一種」というのは、よく読むと訳が分からなくなりますけど、これは生物分類学的にいっても実に完璧な正解を言い表している、ということが分かりました。それから沼野充義さんの註釈にある「コクマルガラス」ですけど、おおまかに言えば正解、細かくこだわると不正解ということになります。
それではまず沼野氏の注釈にでてきたコクマルガラス、これは先生も実際に見たことがあり写真も撮ってるのでお見せしましょう。
これです。通常よくみるカラス(すなわちハシボソガラスとハシブトガラスのことです)よりもひとまわり小さくて、写真のように首と腹が白いものがいます(全身真っ黒なのもいますが)。
これで決まりでしょうか。先生は「kavka」で画像検索してみました。
やはり、ちょっと小さめのカラスの画像がたくさん出てきました。でも先生の撮影したコクマルガラスとは少し印象が異なります。この中の画像の一枚が「Kavka obecná」という名前だったので、それでさらに画像検索をかけてみます。
だんだんとその姿が明確になってきました。これは先生の撮影したコクマルガラスと非常によく似た種ですが、厳密には違います。これは学名Corvus monedula、日本名はニシコクマルガラスといいます。ためしに「ニシコクマルガラス」で画像検索してみましょう。
ほらね。先生の撮影したただのコクマルガラスとは目に白目があるところが違います。
というわけで、沼野先生のコクマルガラスという答えは、コクマルガラスの仲間という意味なら正解、ただし種名としては不正確ということになります。すなわち、厳密な正解としては次のようにいうことができます。
チェコ語でカフカといえばKavka obecnáのことであり、これは学名Corvus monedula、日本名はニシコクマルガラスである。
コクマルガラス(Corvus dauuricus)の英名はDaurian Jackdaw、ニシコクマルガラス(Corvus monedula)の英名はJackdawまたはEurasian Jackdawです。すなわち日本で単にコクマルガラスといえばコクマルガラスを指しますが、ヨーロッパで単にJackdawといった場合にはニシコクマルガラスの方を指すことになります。それは分布をみればもっともなことで、ヨーロッパに分布するのがニシコクマルガラス、ロシアからアジアにかけて分布するのがコクマルガラスだからです。したがってコクマルガラスはしばしば日本でも見ることができますが、これまでに日本でニシコクマルガラスが目撃されたのはわずかであり、もちろん先生も実物を見たことはありません。
Corvusというのはスズメ目カラス科カラス属を指すのですが、近年コクマルガラスとニシコクマルガラスに関しては、CorvusではなくColoeus(コクマルガラス属)として分けようという話になっているようです。だから、Coloeus dauuricus、Coloeus monedulaと書くのが正しいのかもしれません。しかし、未だにCorvus表記が多いのも事実です。
いずれにしても、コクマルガラスとニシコクマルガラスは、カラス属(Corvus)の本流とはいえません。しかし、同じカラス科として非常に近い位置にはあります。ですから、冒頭のほうで引用したチェコの翻訳家ユルコヴィッチさんの答えは、まさに正解といえるのです。
それでは、いわゆるカラス、たとえばハシボソガラス(学名Corvus corone、英名Carrion Crow)なんかは、チェコ語でなんというのでしょうか。ハシボソガラスはチェコ語でVrána obecnáです。つまり、一般的なカラスのことはチェコ語でVrána(ヴラーナ)というようです。
本日の結論です。
- チェコ語でカフカといえば、普通はコクマルガラス属のニシコクマルガラスのことを指す。
- 普通のカラス(カラス属のカラス)はチェコ語では一般的にヴラーナという(と思う)。
へっぽくらくらしまんがとてむや
先生がさすがハルキと思わさせられるのは、その莫大な数の謎とき本や解説本の存在です。先生にも謎とき本に凝った日々があったんです。最初はやはりみんなも大好きな「村上春樹イエローページ」なんか、とてもおもしろく読みました。8月8日に始まり18日後の8月26日に終るとわざわざ冒頭で宣言されている「風の歌を聴け」のストーリーが、実は18日間におさまってない! 加藤氏のこの大発見に関しては、その後様々な解釈がなされるわけですが、世にでるかどうかすら分からなかったデビュー作にこれだけの謎を仕掛けてるぐらいなのですから、その後の出世作にハルキストが臨むべき謎がどれほど秘められているのかは推して知るべしです。
でも先生、実は今ではどうでもいいことのように思ってます。だって、謎の18日間がそれほど重要な鍵を握ることなのであれば、その謎はもっと早くにもっと多くの人によって指摘されていなければならなかったはずだからです。
逆に、後から思い出すほど、そのおもしろさが滲み出てくるのは、「世界は村上春樹をどう読むか」です。これって文庫になってるんですね。先生はちょっと驚きました。この本は、まずお決まりの、退屈な、ハルキの無国籍性についての議論から始まり、後半は世界中から集まった翻訳者たちの、やや専門的な翻訳談義に終始し、読了直後はややつまらないと先生は感じました。しかし、後になってからじわじわと、世界中のハルキストたちのざわめきが、この本から聞こえてくるようになりました。
先生は中でもロシアの翻訳者コヴァレーニンさんがおもしろかった。彼が「やみくろ」をどう訳すかに迷い、ルイス・キャロルっぽく訳してもいいかと、ムラカミ氏本人に相談したときのことが載っています。当然コヴァレーニンさんも、これまでの大方の読者同様、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の「ワンダーランド」は、「不思議の国のアリス(Alice's Adventures in Wonderland)」の「Wonderland」だと思っています。ところが意外なことに、執筆時にムラカミ氏はとくに「アリス」のことは考えていなかった、という事実が明らかになります。まあ嘘かもしれませんけど。でもムラカミ氏は、それはそれでおもしろいアイデアなのでどうぞご自由に、と翻訳者に対する意外なまでの寛容さをみせます。
コヴァレーニンさんは「夜のくもざる」を訳すワークショップでも大活躍します。「くもざる」をロシア語に訳すのにあたって、いろいろな種類の「くも」と「さる」の組み合わせを考えて子どもに聞かせ、もっともおもしろい「くもざる」の造語をつくりだしたぞと、コヴァレーニンさんは意気揚々と語るのですが、「実際にくもざるという動物がいてロシア名もあるのに、わざわざ別名を創作したのはなぜか」という質問が出て、そこで初めて「くもざる」が実在の動物であることを知って愕然とするコヴァレーニンさんの姿は眼に浮かぶかのようでした。「くもざる」のことを「やみくろ」や「羊男」と同様、ムラカミ氏の創作上の存在と考えていたんですね。
参考:「密林の軽業師 クモザル」│ダーウィンが来た!生きもの新伝説
ある訳者はムラカミ氏本人に原稿をチェックしてもらったところ、いくらかの訂正があっただけで、そのうちのひとつは「わかる」と「かわる」の単純な取り違えで、「ひらがなで書いた自分が悪かった」と逆に謝られたそうです。どうやらムラカミ氏は、翻訳者に対しては、われわれが思っているよりもかなり寛容であり、翻訳者自身の自由度を相当認めているようです。これも世界中で訳される秘訣のひとつかもしれませんが。
先生はこれまで、ムラカミ氏は最初から翻訳を意識して、僻んだ言い方をすれば世界の目を気にして書いていると思っていました。でも一概にそうと断言はできないと思うようになりました。たとえば、「かえるくん、東京を救う」で、かえるくんが、「かえるさん」を「かえるくん」と正すくだりなど、各国翻訳者は相当苦労を強いられているようです。また、ムラカミ氏は「〜になる」と「〜となる」を巧妙に使い分けているそうですが、これを英語で表現するのは至難の業だという話もありました。英語の訳者は、アメリカ的だからやりやすいだろうと言われるが、けっして簡単ではないと言ってます。
この本は2006年に17カ国23人の翻訳家や研究者が一同に会したシンポジウムの記録でもあります。現存の作家一人に関してこのような世界的な研究会が開かれること自体が驚きであり、また周知のように40近い国々で翻訳されていることを鑑みれば、ムラカミ文学に対して、「どうでもいい内容と気取った文体からなる西洋的な大衆文学」という一面的な評価を下すのは早計であると考えざるを得なくなります。
世界の翻訳者たちの言い分から聞こえてくる共通のキーワードとして浮かび上がってくるのは、意外なことにもムラカミ文学の「日本的叙情」です。私たちはムラカミ文学にアメリカを感じますが、逆に世界は日本を感じているのだといいます。ムラカミは機械でも翻訳できるように書いているのではなく、慣習的な表現を避け、自分の言葉で、わざと簡単な表現を使って、日本について書いているのだ、というのが、結局彼ら共通の主張のように思えました。
ハルキは、日本語で日本人について書いている。ということが浮かび上がってくる。
このことは、ムラカミ氏本人の発言からも伺えます。
「文章的に言えばたしかに、僕の文章は日本的な文章ではないですね。例えば川端とか三島みたいに日本語と情緒的に結びついているというか絡み合っているという部分は僕の文章にはないです。はっきり分けているから。にもかかわらず残る日本人的なものというか日本的なものに興味があるんです。」村上春樹を読みつくすより
また、アメリカの大学で「象の消滅」について、学生から「場所が日本でなくても成立する話ではないか」と言われたことに対し、「そうではなくて、これは日本の小説である」と反論したエピソードがあります。式典で小学生の代表が「象さん、元気に長生きしてください」という作文を読み上げるシーンに関して、
「日本人の読者ならそんなことはとくに不思議だとは思わないだろう。しかしアメリカ人はそれを不思議であると思う。そんなことはありえないと思う。何故小学生が象に向かって作文を読み上げなくてはならないのか?」村上春樹を読みつくすより
つまりハルキは、自分の日本語で日本人的なもの日本的なものについて書いている。
1Q84には、1984年の日本の世相を代表するエリマキトガケもグリコ森永事件もマハラジャもシンボリルドルフも出てきません。これを書かないのは日本以外の人には分からないからなんだろう、と揶揄する向きもあります。しかしどうでしょう。日本人的なもの日本的なものについて書くハルキにとって、それらは単に一過性で瑣末なことだっただけなんじゃないだろうか。と思えるようになってきたぞ、先生は。だって、それじゃあ、ヤマギシ会やあさま山荘やオウム真理教は世界に分かることだろうか(オウムは分かるかもしれないけれど)。
そしてさらに、ひょっとして、ノーベル賞、もらっちゃってもいいんじゃないか? という気がする日もくるようになった先生であった。しかし一方で、うーん、これがノーベル賞でいいのか?という気がする日もまだある、まあそんな複雑な、今日この頃であったのである。
無茶比喩シフォンケーキ ――村上春樹の比喩コラージュ
今すぐ空腹の欠落を埋めなくてはならない。それは身体の向こう側まで透けて見えるんじゃないかという気がするくらい激しい空腹感だった。そしてそれは欠落感の一種というよりも、錐で刺されたり、縄で締め上げられたりするのと同じような、純粋な肉体の痛みに近いものだった。
死体安置所のように清潔なダイニングには一昔前のポーランド映画みたいなうす暗い光が差し込んでいた。朝から何ひとつ食べずに働き通した僕は、まるで甲殻動物が季節のかわりめに殻を抜けだすような格好で帽子とコートと手袋をひとつひとつ慎重に脱ぎ、食卓テーブルの前の椅子に座った。そして目を閉じて、ぬめぬめとした内臓が食べ物を要求して身をくねらせる音を聞いた。
「実を言うとね、私には食欲というものがよく理解できないの」、女はすごく難しい顔をしてそううちあけた。
「食欲というものは理解するものじゃない」と僕はいつもの穏当な意見を述べた。「それはただそこにあるものなんだ」
そう言うと、女はなにか特別な動力で作動する機械でも見るみたいに、しばらく僕の顔を検分していた。
「今日は特別な料理を用意しているのよ」と女は言った。それはまるで安定の悪いテーブルに薄いグラスをそっと載せるようなしゃべり方だった。なんだかこれから手品でも始まるみたいな雰囲気だった。
女はまるで傷つきやすい動物を扱うみたいに大事そうに小皿をテーブルの上に置いた。その小皿の上にあるのがシフォンケーキそのものであることを僕はしばらく認識することができなかった。それは飾りのないシンプルな、生きているのか死んでいるのかわからない意識を失った白いシフォンケーキだった。
どちらかというと僕はシフォンケーキが好きではない。シフォンケーキがこの世界から半永久的に失われたとしても、ちっともかまわないぐらいだ。たらことバターのスパゲティーでもなく、ロースト・ビーフのサンドイッチでもなく、ましてやアンチョビのピザでもなく、どうしてそれがシフォンケーキでなければいけないのだろう。
僕はカーディガンのボタンを掛け違えたみたいに現実との接点を見失い、自分ががらんとした空き家になったような気がした。
中年の男とシフォンケーキ。奇妙なとりあわせだった。羽根枕と氷かきとか、インクびんとレタスとかいったくらいに奇妙なとりあわせだった。シフォンケーキはまるで間違った場所に置き去りにされた荷物のようにさえ見えた。
そして僕の空腹感は、「ガリヴァー旅行記」に出てくる空に浮かんだ島みたいに、テーブルの上空にしばらくのあいだ虚しく漂っていた。僕とシフォンケーキは「男とシフォンケーキ」という題の静物画みたいにそこに静かにとどまっていた。
しだいに心臓が音を立て、女に対する怒りが僕の血液にアドレナリンを供給した。柔らかな万力で締め上げられみたいに頭が鋭く痛んだ。
*
「ちょっと待ってくれないか。いったい君は誰なの?」
「私はあなたのブログの読者よ」
「ひとつ質問してもいいかな。僕は夕飯を食べに帰ってきたんだ。それなのにどうしていきなりシフォンケーキを食べなくちゃならないんだろう」
「私はくだらないスイーツブログを終わらせるために現れたの。スイーツブログといいながらスイーツと関係のない冗長な話ばかりだし、致命的なのは肝心の味が全く表現されていないことよ。コメント欄でも長文なのに味に関しては『しっとり』としか書いてないって批判されていたけれど、私も当然だと思うわ」
「味の表現だって? 僕はね、そもそも最初から味を表現する気なんかないんだ。だいたい君は人間の世界に味というものが何種類あるのか知っているのかい? 塩味、酸味、苦味、甘味、うま味、人間の舌にはこの5種類の受容体しかない。つまり味なんていうものはだね、塩っぱい、酸っぱい、苦い、甘い、うまい、この5種類の言葉の組み合わせでしか表現できないんだよ。スイーツに限れば、甘いとうまいの2種類しかない。つまり『甘くてうまい』以外にスイーツの味表現なんてないんだ。だからこそ僕は、味に関すること以外の、もっと奥深い話をしているってわけさ」
「味がその5種類しかないっていうのは間違っているわ。辛味とか渋味、それにコクとかキレっていうのもあるじゃない」
「君は味覚のことをよく知らないようだね。辛味と渋味は味覚神経ではなくて三叉神経を介して伝わってくる触覚の一部だ。コクだのキレだのに至っては情報が大脳皮質で統合されたあとの話だから、概念自体が曖昧で定義のしようがない。いいかい、僕は大脳皮質以降の話はしたくないんだ。だって味というものは大脳皮質に到達する前にほとんどその分析は終わっているんだもの。その証拠に赤ちゃんだって、苦ければ顔をしかめ、酸っぱければ口をすぼめ、甘けりゃ幸せそうな顔をする」
「でもあなたは言葉の分からない赤ちゃんのためにスイーツブログをやっているわけじゃないでしょう。私は情報が大脳皮質で統合された後こそ大事だと思うわ。統合された味覚情報は、扁桃体や眼窩前頭皮質にも送られ、温度、食感、匂い、視覚といった他の感覚、さらにはその人が過去に体験した記憶などとも照らし合わされ、その結果として最終的な情動が起きるのよ。だから味の表現には5つの基本味にこだわらない言葉こそが駆使されるべきよ」
「味に関して言葉を駆使できている人間なんて、グルメ番組のタレントにはもちろんのこと、料理評論家と自称する輩にだって見当たらないね。あいつらは食い物を口に入れたあと、訳知り顔で眉間に皺を寄せてうなづくか、目を見開いて『んー』とか叫んだりするだけだ。やっと何か喋ったと思ったら、とろけるだのジューシーだの食感に関することばかりだし、シャキシャキだのシコシコだの擬音語ばかり使う」
「そんなことはないわ。こないだ料理番組に出ていた芦田愛菜ちゃんでさえ、ちゃんと『オレンジのような酸味を感じる』って言ってたもの。6才児にできてどうしてあなたにできないの」
「オレンジのような酸味ってそのままじゃないか。どこが言葉の駆使なんだよ。あのね、言葉による味の複雑な表現なんて元から不可能なことなんだよ。いや、そもそも味を言葉で表現する必要なんかないんだ。いちいち君の言うとおりにしていたら、味覚の根本命題どころか、言葉の根本的な問題につきあたってしまうよ。例えば僕の甘いと君の甘いは同じなのだろうか、なんてね」
「たしかに私の甘いとあなたの甘いが同じかどうかなんて永遠に分からないわ。私はあなたになれないし、あなたは私になれないもの。だけど、人は同じ体験を共有することによって、相手がどう感じるかを予想することができる。好きな人が自分のことを好いてくれれば誰だって嬉しいし、大事な人が死んだときは誰だって悲しい。その予想はたぶん、かなり当たっているといえるんじゃないかしら」
「だけど、人はみんな同じ体験をしているわけじゃないし、感じ方だって人それぞれだ。どれだけ言葉を尽くしてみても、味を誰かに伝えることはできないし、自分自身にさえ伝えることはできないかもしれない」
「そう、正確には伝わらないかもしれない。でも、何も伝わらないより、ましじゃない? だってスイーツブログなんでしょ? スイーツの何かを伝えなくては意味がないわ。だから、あなたがそのスイーツを食べたときの情動を過去の体験に照らし合わせて、あなたなりに物や出来事に例える、つまり『比喩』を駆使することによって、あなたの情動を伝えることが可能だと私は思うわ。もしも伝わり方があなたの思ったとおりじゃなくたって、それはそれで面白いんじゃないかしら」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。よくわからないな。でも要するに君の言いたいことは、味の表現にもっと比喩を使えってことなんだね。それを先に言ってくれよ。お望みどおり比喩をじゃんじゃん使ってやるよ」
「ちょっと待って。比喩は慎重に使われなければならないわ。特に『突飛な比喩』を使うのは危険よ。それを使いこなせるのは世界的な文学者だけだわ。あなたみたいな素人が『突飛な比喩』を使ったところで滑稽になるだけだもの」
「だいじょうぶ。比喩なら得意なんです。なにせ僕には世界的な文学者が使った比喩のデータベースがあるです。任せておきなさい。僕には自信があるです」
*
やれやれ。
僕はシフォンケーキが夕食だと思い込むことにした。それはなんだか勃起しないペニスを勃起させようとする努力に似ている気がした。
僕は仕方なく体じゅうの筋肉だか神経だかが軋んだような音を立てながらフォークを手にした。僕は「オズの魔法使い」に出てくる錆びついて油の切れたブリキ人間みたいだった。
僕はフォークの先をシフォンケーキに突きさした。フォークはまるで僕の眼球に突きささるようにシフォンケーキにやわらかく音もなく食いこんだ。
「下の方までずっと柔らかいのよ。まるであたためたバター・クリームみたいにね」と女は言った。
たしかにアルデンテというには心もち柔らかくなりすぎていたが、致命的なほどではない。陶器のようにつるりとした白いクリームの中から、妙に現実感のない鮮やかな色あいのスポンジが顔を出す。
僕は空腹の苦痛をなだめるために、フォークに刺したシフォンケーキの一切れをとりあえず口に入れた。食感は恋人の手のように親密でもなかったし、医者の手のように機械的でもなかった。飲み込むと、まるで喉にひっかかった魚の小骨のような居心地悪さだった。僕は間違って不適当なものを飲み込んでしまったときのような奇妙な表情を顔に浮かべる。
だが次の瞬間、晩年のベン・ウェブスターのテナートーンを思わせる、かすれたエアブレーキのような声で僕は「うまい」と唸ってしまった。それはまるで小さな子が窓に立って雨ふりをじっと見つめているような声のようでもあった。それは自分の声には聞こえなかった。それに僕はそんなことを口にするつもりもなかったのだ。その声は僕の意志とは無関係に、自然にどこかから出てきた。でもそれは僕の声だった。
エスプレッソも手のひらにとることができそうなくらいしっかりとして丸みがあり、芸術的といってもいいくらい淡麗な説得力のある味だった。それは慰めとか励ましとかじゃなくて、まっすぐで力強い事実だった。モルダウ河みたいに。
それはまるでやわらかな太陽の光のように、窓からゆっくりと僕の心の中に舞い降りてきた味。
思いだそうとして長いあいだ思い出せなかったような味。
神秘的といってもいいくらいに特殊な味。
何かしら人の気持ちを落ち着かなくさせる味。
どこからか吹きこんでくる強いつむじ風のように僕を揺さぶる味。
世界中の細かい雨が世界中の芝生に振っているような味。
肺炎をこじらせた犬のため息のような味。
やがて僕の怒りは水の流れにさらわれていく砂のように、少しずつその密度と重さをなくしていった。もう僕の眼鏡の奥にある目は、限定された動きだけをもとめる深海の捕食生物のように、皿の上のケーキを探っていた。
女はまるで珍しい動物の入っている檻でものぞきこむような目つきで僕をじっと眺めた。
「男の人っていつもケーキのことを考えながらしているの?」
「そうだね。まあ株式相場とか動詞の活用とかスエズ運河のことを考えながらする男はいないだろうね。だいたいはケーキのことを考えながらやっているんじゃないかな」と僕は答えた。
僕がシフォンケーキを食べ終わると、何千人もの老人があつまってみんなで歯のすきまからシフォンケーキのクリームを吸い込んでいるような奇妙なざわめきがあたりに充ちた。
いつの間にか女は姿を消していた。僕の胃の底のあたりには糸屑のかたまりようなものが沈んでいるだけで、空腹が満たされたわけではなかったのに、「武器よさらば」とは違って、食欲なんてまるで湧いてこなかった。そしてそのうちにふと、食欲が湧いてこないのは、あるいは僕の中にブログ的リアリティーのようなものが欠如しているからではないかと思った。自分自身がまずく書かれたVNIになったような気がした。
僕は眼を閉じて眠ろうとした。でも本当に眠ることができたのはずっとあとになってからだ。次に目覚めたとき、僕はもうスイーツについて語ることはないだろう。そのとき僕は新しい世界の一部となっているはずだから。
*
「今ひとつの出来だ。もっと笑えるものになると思ったんだけどな。漱石でやったとき(硝子戸の中)はまだ充実感があったんだけど、今は何もない」
「あなたのせいじゃない。あなたは悪くなんかないのよ、精いっぱいやったじゃない」
「違う、違うんだ。僕は何ひとつ出来なかった。でも、やろうと思えばできたんだ」
「人にできることはとても限られたことなのよ」
「そうかもしれない。でも何ひとつ終わっちゃいない。いつまでもきっと同じなんだ」
「終わったのよ、何もかも。言ったじゃない、私はスイーツブログを終わらせるために来たのよ」
観念と呼ぶにはあまりに生々しく
そのとき順子は、焚き火の炎を見ていて、そこに何かをふと感じることになった。何か深いものだった。気持ちのかたまりとでも言えばいいのだろうか、観念と呼ぶにはあまりに生々しく、現実的な重みを持ったものだった。それは彼女の体のなかをゆっくりと駆け抜け、懐かしいような、胸をしめつけるような、不思議な感触だけを残してどこかに消えていった。
村上春樹「アイロンのある風景」より
自分の気持ちを整理しようと、頭でいろいろと考えていると、その思いが言語化されていく。
でもそれは結局「観念」に過ぎないのかもしれないな。
だって私の体は私が無自覚のうちに何かを感じ、何かをしようとしているんだもの。
「過ぎない」と書くと、「観念」を見下しているようで失礼かもしれない。
それにとらわれるのも、眉と眉の間にしわを寄せながらも実はそれを楽しんでいるのも、 それはそれで人間というものなのだろう。
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