自殺願望と希死念慮
私は精神医学の専門化ではないので的外れな点もあるかと思うが、うつ病での希死念慮というものは「何か嫌なことがあっていっそ死んでしまいたい」という状態とはちょっと異質なものとして定義されていることが多いようだ。「死んでしまいたい」どころではなく「死ぬ以外は考えられない、いや、死ななければならないのだ」というひどく狭い考えが袋小路に入ったのが希死念慮であり、そして回復してそれが去ったあとは、どうしてあれほど死のうと思ったのか自分でも理由が見つからない、という性質を有するらしい。
だが、それも単純で画一的な説明だとも思う。この希死念慮の定義では、WHOの「自殺者は死の直前まで迷っているものだ」という主張とやや矛盾する。そして、ただの自殺願望と希死念慮が異質なものだとしても、じゃあただの自殺願望なら大丈夫だという保証は全くない。
希死念慮の謎|kyupinの日記 気が向けば更新 (精神科医のブログ)
私はたびたびこの精神科医の意見に目から鱗が落ちる思いをする。うつ状態と希死念慮の間には、我々が単純に思うほどの相関はないのかもしれない。また、ETC直後に「希死念慮が消えていない」と叫ぶ症例には、うつ病患者にとって希死念慮とはそれほどまでにはっきりしたものなのかと驚愕させられる。
希死念慮のある患者にはまずSSRIを投与しないという彼の意見にも賛成である。医学生レベルではうつ状態からの回復期は行動力も回復するのだから自殺企図に注意しなけれならないと解説される。したがって門外漢はSSRIを投与すると自殺をするのは「うつ」の回復途中だからだと考える。だが私はこの精神科医と同様、それは全く違うと思う。私は一度自分でSSRIの増量を試みたことがあるのだが、たしかにSSRIは外界からのストレス刺激に対して壁を作ってくれるというか、そのストレス刺激そのものがどうでもいいやと思えるようにしてくれる。だがそれが過ぎると、ほんとうにすべての事象がどうでもよくなり、私の存在そのものもどうでもよくなってくるのだ。私はいっそ自分の存在を消したいと思った。私は「うつ」による希死念慮がどういうものなのかまだ判然としないのだが、これは明らかにそれとは違う感覚ではないかと思っている。
今日は自分でも少し焦燥感のようなものが強いと感じたので自殺について客観的に考えて落ち着こうと思いこれを書いている。私はどちらかというと過眠タイプに陥る。いつまでも眠っていたくなる。朝目覚めると、目覚めてしまったことがつらく感じる。このまま目覚めなければいいのにと思って床に入る。いっそ末期癌だったらいいのに、とか思う。およそ希死念慮にはほど遠い。
プロフェッショナルなんてくそくらえ。
NHKのプロジェクトXの後釜的番組に茂木ナントカさんがやっている「プロフェッショナル」という番組がある。なんかの名人とか、それこそ医者だったら神の手とかそういう感じの人が出てきて、最後にプロフェッショナルとは何ですかという質問に答える。24時間そのことを考えるのがプロとか、たいていそういう感じの答えが返ってくる。
先日、僕の送別会があった。僕の医局では毎年1回自主制作映画を作るのが恒例になっているんだけど、僕はその第1作と第2作で主人公の敵役という準主役を演じた。そして、その映画で僕の出ている名場面が編集されたダイジェスト版がそこで大型スクリーンに映し出された。
僕は6年前にこの若者ばかりの医局に指導者として期待されてやってきた。僕はただ自分を見せるだけで押し付けや具体的な指導はしない。彼らには充分カルチャーショックだったろう。それで充分だ。相手を全否定するのもイヤなので、こういうふうにやりたいという提案があったときは「いいんじゃない」が口癖である。もっともっと10年以上も前になるけど、前の大学でも新人たちがマックのアラート音を僕の「いいんじゃない」に設定して、あっちこっちで「いいんじゃない」「いいんじゃない」って鳴りまくっていたことがあったから、やっぱりこれは僕の代表的なセリフなんだと思う。
映画では、たいてい僕は敵役というか悪者というか真犯人だったりするんだけど、その動機となった理由や怒りなどについては台本に書いていないんですよ。他のセリフはびっしり台本に書いてあるんだけど、その僕の独白の場面だけは台本が真っ白なんです。そして監督が、そこはアドリブでお願いしますって言うんだ。それが恒例だったんです。
2作目では、主任教授の座を争うバトルロイヤル戦で、僕と後輩の女医が最終決戦を行うんだけど、僕が彼女に負けそうになる。そこで僕は降参するふりをして土下座をする。土下座をしながら僕の独白シーンとなるんだ。
「お前ら、仕事に命をかけたことがあるか。寝ないで論文読んだり書いたりしたことあるか。ただ時間に流されるようにだらだらと目の前の患者さばいてるだけじゃねーか。仕事っていうのはな、プロっていうのは仕事に命をかけることなんだよ。」
正確には覚えていないけど、こんな感じ。今思うと背筋が寒くなるね。そしてこういいながら彼女に襲い掛かる。
「プロなら最後まで油断やスキを見せるなー!」
ま、結局やられちまうんだけどね。
後輩たちにとって、普段は「いいんじゃない」とばかり言っている僕の本心、僕の厳しさを映画のセリフで知ってかなりショックを受けるというのも、それもまた恒例だったようだ。
当時は僕は本当にそう思ってたから言ったんだけど、そう言ってるやつが映画では結局必ず負ける。そして現実でも、つまり僕の中でも、実はそんなこと言ってた奴はとっくに負けていなくなっているんだ。
世の中、プロフェッショナルに出演して茂木ナントカにプロフェッショナルとは?なんて聞かれるのは社会の極一部の人なんだよ。世の中にはいろいろな人がいる。じゃあ24時間仕事のことを考えられない人はプロとはいえない、だから仕事をする資格ないのか、いや、そんなことはないよね。5時で帰る人だって、パートの人だって、みんな戦力には変わりないんだ。仕事じゃなくて家庭に帰ってから本領を発揮する人だって、家族にしてみりゃとても大事な人だ。世の中働かない人も病気やいろいろな事情で働けない人もいる。そんな人たちも、全部全部含めて社会なんだ。世界なんだ。みんながみんなNHKのいうプロフェッショナルである必要なんてどこにもないんだよ。むしろ組織の、社会の、世界の構成員の最多数派は、「その他大勢」の人なんだ。「その他大勢」っていうのは大切なことなんだよ。なんといっても、組織を社会を世界を成立させるために最も重要なのは一部のプロフェッショナルなんかじゃなくて「その他大勢」に他ならないからね。
だから僕は今後は幸せなその他大勢とは何かを少し模索してみることにするよ。
ウィトゲンシュタインと大澤真幸
論考2-0123
対象を捉えるために、たしかに私はその外的な性質を捉える必要はない。しかし、その内的な性質のすべてを捉えなければならない。
私と貴方の違いを考えてみよう。私は内向的で貴方は外向的だ。私は飽きっぽいが貴方は根気強い。だが、これらの性質はウィトゲンシュタインのいう外的性質にあたる。人間としての「性格を持つ」という点では貴方も私も変わりはない。この「性格を持つ」というのが内的性質(論理形式)にあたる。オバマは黒人でマケインは白人だ。これも外的性質に過ぎない。「肌の色を持つ」という内的性質に違いはない。こうして考えていくと、私と貴方の「内的性質(論理形式)の違い」を見出すことは極めて困難であることが分かる。
論考2-0233
同じ論理形式をもつ2つの対象は、それらの外的性質を除けば、ただそれらが別物であるということによってのみ、互いに区別される。
すなわち、貴方と私の違いは、貴方と私が別物だということによってのみ区別される可能性が高い。では別物だということをどう表現すればいいだろう。野矢によれば、内的性質(論理形式)が同じであれば、「この」という指差しによってのみ両者は区別される。それは「貴方」と「私」であり、また「貴方の名前」や「私の名前」でもあろう。
最近読んだ大澤真幸の「不可能性の時代」に、まさにそのことを指していると思われる箇所があった。
名前は個体の諸性質に還元することができない余剰Xを指示している。
この場合の「名前」とは、野矢のいう「この」という指差しに相当し、諸性質とは外的性質のことだ。
コピーライターは使用価値の上ではさしたる相違のない商品の間に差異性の幻想を与えることを仕事としている。
結局は内的性質(論理形式)が同じである商品に、コピーライターは懸命に「この」という指差しを施すことで差異性を与えようとしている。だが、論理形式が同じであれば論理的にその差異を明確にすることなどできない。それは大澤のいうように幻想なのかもしれない。
繰り返すが、貴方と私の違いは、貴方が貴方であること、私が私であること、それ以外に何もないのだと思う。
論考2-025
実体は形式と内容からなる。
形式とは内的性質(論理形式)のことだろうか。そして内容とは実質、すなわち「この」という指差しにあたるのではないか。とすれば実体に外的性質は含まれない。根気がない、何をやってもダメ、存在する価値などない、そんな外的性質なんかどうでもいいことなんだ。と、やや強引で我田引水的な結論で、私は私と貴方を励ましたい。
ブログをやっている意味が分からなくなったので閉鎖します
ブログをやっている意味が分からなくなったので閉鎖します。
いや、うそですよ。
人は何かをやり続けていると、いつかその意味や価値に疑いを持ち、立ち止まってしまう。
だが、それをやり始めた頃の自分、それが面白くてたまらなかった頃の自分を思い出してみよう。
意味や価値を求めてそれを始めたのだろうか。意味や価値が継続の原動力だったのだろうか。
おそらくそうではないだろう。
ただそれをやりたいからやっていた自分を思い出さないか。
梅佳代はカントを批判したニーチェか
カントは人間の理性で認識・理解できるものには限界があるとした。私が「もの」を見たとき、それは私が認識した「もの」にしか過ぎず、あるがままの「もの自体」のすべてを捉えることは神にしかできないと言った。ニーチェはこのカントの主張を批判する。そもそも「もの自体」すなわち「客観」などないのだと。世界はただ様々な「主観」が渦巻くカオスなのだと。
先日、トップランナーに出演した梅佳代に観客が質問をした。人にカメラを向けるとその被写体がどうしても構えてしまう、梅佳代のように被写体の自然体を捉えるにはどうしたらよいのかと。まず梅佳代は具体的な例として、例えばお祭りとか花見会場のように人が自然に被写体になってくれるような状況があると説明した。しかし注目すべきはその後に発せられた彼女の哲学的な言葉であったと思う。曰く、
「そもそも自然体とは何なのか。あなたがカメラを向けて被写体が構えてしまたとしても、それはそれで自然体なのではないか」
言い換えれば、その人の「自然体」なんてものはないのだ。そこにはただ、梅佳代に反応する梅佳代が見た被写体、観客の彼女に反応する観客の彼女が見た被写体、がいるだけなのだ。そうして時間と空間はカオスのように渦巻いていく。梅佳代はそのある一時を切り取って見せているに過ぎない。
自己犠牲
亀山郁夫先生がロシアの芸術を語るときによく「二枚舌」という言葉を使う。権力に媚びているように見せかけながら、けっして権力には屈服しない芸術をいう。
ここ何年か宮沢賢治の「自己犠牲」について考えてきた。自分の命を捨てることで妹が幸せになるのなら、賢治は惜しまず命を捨てたことだろう。誰しも個々の心中には自己犠牲の精神というものが内在するであろうし、私にはそれを惜しみなく実践できる自分でありたいという願望が確かにある。だが、迫りくる軍国主義の到来を前に、賢治は「より大きなもののために惜しみなく自分を犠牲にすることの恐ろしさ」も同時に予感していたのではないか、というのは考え過ぎだろうか。
カムパネルラはザネリのために惜しみなく命を捨てたのだろうか。ならば汽車の中でのカムパネルラはもっと幸せそうでもいいのにと思う。「みんなの幸いのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」というジョバンニのセリフは、子どものころから頭に焼きついて離れない言葉だ。だが今冷静に考えてみると、カムパネルラの死よりも、早く母親の元に牛乳を届け父の帰りが近いことを知らせたいジョバンニで物語は終わるのだ。単に自己犠牲が賛美されているとは到底思えず、最近の私はこれも「二枚舌」なのではなかろうかと勘繰ってしまうようになった。
自己犠牲を超えた本当の幸いがある。その本当の幸いとは何か。結局賢治は自らの永遠のテーマに答えを見つけることができず、あるいは答えなどないことを悟ってこの世を去ったのではないだろうか。
年をとったら分かること
詩人の松本圭二さんが、本人曰く「やけっぱちの」青春小説を書いた。
ご自身の若い頃は、ただ時間をだらだらと無駄に潰すだけのとても青春とは呼べない代物だったので、だからこの青春小説は嘘っぱちなんだそうだ。公務員をやめて退路を断ち、小説家として食ってくことをやけっぱちで決断されたようだ。詩を読んでる限りは、こんなおもしろい方だったとは思ってなかったなあ。ご本人にしてみれば必死なのだろうから悪いけど。
今思えば、私も若い頃をずいぶん無駄に過ごしてきた。というか、大方の人の若い頃なんてそんなものだろう。社会人になってからは、劣等生だった分を挽回しようと、私にしてはこの分野でずいぶん頑張ってきたと思ってた。少しは名も売れたし、講演や著作の依頼も入るようになった。しかし最近、それは所詮狭い分野での話だということに気づくと、この分野で頑張ってきたことも、結局若い頃と同じで無駄であるような気がしてきた。だから試しに講演も原稿依頼もほとんど断りつづけてみた。すると、たった1年でそういう仕事は入らなくなった。所詮それだけの仕事だったということだ。
少し時間ができると、もっと人間としての、いや、人間としてのと言ってしまうと大げさに聞こえるが、言い換えればひとりの平凡なおじさんとして、息子として、夫として、もっと大事なことがあるような気がする。私はどうして私なのだろう、私はどうしてこの親たちから生まれてきたのだろう、私はどうしてこの人と出会って夫婦になったのだろう、そんな子どもみたいな疑問が今さらのようにつきまとうようになった。
偉大な詩人が、小説家が、哲学者、思想家、宗教家が、そして画家や音楽家たちが、時を超えて数え切れないほどの素晴らしい作品を私たちに残してくれている。そうして私がそれらを賞味できる時間は刻一刻と削られていく。所詮すべてを堪能することなど不可能なのだけれども、この1年、仕事よりもそういうことに重きをシフトしてみた。おじさんにとっての1年なんて若者のそれに比べれば微々たる時間なのだけれども、そんなわずかな1年だって私を明らかに変えつつあると思うよ。
こちらでは、今年のサクラはまだ満開ではないけれども、なかなか良さそうだね。カタクリも毎年見てきたけど、今年もとても良かったよ。サクラもカタクリも、私がいなくなったあとも悠久の時を超えて毎年春に咲くことを繰り返すだろう。花は毎年同じように咲くのに、私の花を見る目は年々変わってきている。私はあと何回この感動を味わえるだろうか。そう思うと、今年も美しい花を鑑賞できたことに涙が浮かんでくるほどなんだ。
私が「無駄」と言ったのは、けっして悪い意味じゃない。現に私は今、これまでの人生を後悔はしていない。もちろん、若い頃にもっとこうしていればと考えることもあるが、ただ年を重ねると、あの頃、がむしゃらだったり苦しかったりした自分も、それも間違いなく自分だったのだと思う自分がここにいる。若い頃に戻りたいとか、もっと若ければと思わないこともないが、そのようなかなわぬ願いは年々薄れ、こうして静かに年を重ねていくのも、まあ悪くはないなという心境になっている。
今でもつらいことはそりゃあるよ。でも所詮つらいということは、自分以外の何者かに振り回されているからに過ぎないんだ。そしてそれも、そんな自分だったのだなあと受容できる日が誰にでも来る。どんな人生を歩もうと、それでもまあ悪くない人生だったじゃんと最期に思えることが、しょせん人間のささやかで、それでいて最高の目標なんではないかな。
出だしと終りがちょっとずれてしまって、ほんとはもっと違うことを書きたかったんだけど、今日はこれまで。おやすみ。
はらわたが煮えくりかえる思い
少し古めの話題になるが、少年がホームから人を突き飛ばして死なせた事件で、被害者の父親のコメントが心に響いた。「将来社会に役立つことで罪を償ってほしい」と、そのような内容だったと記憶している。「本当ははらわたが煮えくりかえる思いですよ」と付け足しつつ、絞り出すように語ったその言葉は、もしそれがそうすることで自分の怒りや悲しみを癒すためのものだったとしても、感銘を受けるに値するものだったと思う。ただ、番組によっては「はらわたが煮えくりかえる」の部分だけを編集して流すものもあり、マスメディアの無自覚な罪に悲しい気持ちにもなった。
全く関係ないが、このことで思い出したのが、何年か前に元ハンセン氏病患者の入浴を拒否したホテルの話だった。私が意外に思ったのは、ホテル側に同情する意見が多く、ネット上でも「そうは言っても実際に自分がいっしょに入るとしたらやはり気持のよいものではない」といったいわば自分に正直な書き込みが目立った。私はたとえ自分の感情がどうあろうとむしろ歓迎していっしょに入る自分を想像する。ここで私はことさら元患者側に立った正義を説くつもりは全くない。むしろ誰も見ていないところでそのような状況が事実となった場合、本当に自分がそのような行動をとるのかは分からない。ただ私はいっしょに入る自分を想像することしかできない。そして、いっしょに入ったあとどのような感情に陥るだろうかと想像する。本当に何の偏見もなくいっしょに入れたことを幸せに思いたい。ところが、いっしょに入った自分の姿に悦に入る、ナルシシズムの自分がそこにいるのではないだろうかと思うと、急に自分が恐ろしくなる。
自分に正直であること、本当の自分をさらけ出すことは良いことだろうか、悪いことだろうか。そして逆に、本当の自分を隠すことは良いことだろうか、悪いことだろうか。
そもそも本当の自分とは何なのだ。「感情」が本当の自分なのか。感情を制御して、あるいは克服して、あるいは感情を超越した言説や行動を起こすことは、本当の自分がやっていることではないのか。
「夜と霧」にみる辛さの客観化
以前、こんなことを書いた。
どうしようもなくつらいとき、自分は本当につらいのだろうか、つらい自分を演じているのではないだろうかと、一度自分を疑ってみるとよい。
少し楽になっただろ。
「夜と霧」は、学生時代に霜山訳で読んだが、新版の池田訳でおよそ20年ぶりに読み返した。
フランクルは収容所生活の間に、将来「強制収容所の心理学」と題する講演をすることを思い浮かべることで、自分の現在の苦しみをまるで研究対象のように客観的にとらえることに成功したと語っている。そしてスピノザの「エチカ」から、次の一節を引用した。
苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる
私の先の文章は、おそらく旧訳で読んだこの部分の潜在的な記憶が表出したのだろうと、新訳を読んでいて私はそう思ったのであった。 しかし、未来をも絶望視しなければならない状況では、この方法をもってしても救い難い。ここから先がフランクルの真骨頂なのだ。読みやすい新訳をぜひおすすめする。
生きることの意味とは、なぜ生きるのかという問いに対する答えではないのだ。生きるということは、絶望や死も含めて生きるということであり、生きるということ自体が意味なのである。
続・真の善意
前回の一本の葱の話は、もちろんグルーシェニカのセリフからとった。元はロシアの民話でドストエフスキーは農婦から聞いたそうである。「カラマーゾフの兄弟」では、一本の葱しか与えていないと自分を責めるグルーシェニカを、一本でも葱を与えたじゃないかとアリョーシャがなぐさめる。そのアリョーシャも、君は葱を一本与えましたねとゾシマ長老に褒められる。つまり、この小説の中で一本の葱は評価されているように思う。でも前回の私は、グルーシェニカと同様、一本の葱を否定的な意味で使った。
いや、私が言いたいことは、もちろん葱の本数なんかではない。
「本当の善意による行いとは、それを行えば行うほど苦しくなるものだ」
そうだとすれば、今、自分は役に立たない人間でありこの世にいなくてもよい存在だと思い悩んでいるあなたこそ、真の善人なのです!
私も何も役に立たない人間です。あなたの力にはなれません。
でも、私は思い悩めるあなたの味方です。
あなたを心から応援します。くよくよと思い悩んでいる人、バンザイ!
- 教授御尊顔
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