2016年に読んだ本私的第1位
第1位 稲見一良 ダック・コール (ハヤカワ文庫JA)
7ヶ月もかかってしまいましたが、やっと第1位にこぎ着けることができ、ひと安心です(つーか、第1位はどうなってるんだって、誰も言ってくれねーでやんの、寂しー)。
2016年に読んだ本、栄えある第1位、といっても1991年の古い作品、著者はすでに故人です。
稲見一良は、当ブログの2011年の記事、「カフカとはチェコ語でカラスのこと、というのは本当なんだろうか? よく調べてみたら、ニシコクマルガラスのことだって分かったよ!」のコメント欄で、「男は旗(新潮文庫)」を薦められて知りました。これはコクマルガラスが出てくる小説だということでした。
それ以前にも、ネット上のどこかで、どなたかから「野鳥が好きなら稲見一良を読んでみたら」と薦められたような気がするんですが、記憶が定かではありません。申し訳ないです。
それからずっと、いつか読んでみようと思ってはいたのですが、正直なところ最近はすっかり失念していました。でも突然思い出して、昨年やっと著者の代表作であるこの「ダック・コール」を読んでみた、というわけです。
2016年に読んだ本私的第2位
第2位 殊能将之 未発表短篇集
残念ながら、1月中に書き上げることができなかった。もう2月なのに昨年のことをまだ振り返っているなんて、いささか気恥ずかしいことなのですが、今さら仕方がないので続けます。
これは昨年の2月に出た短編集なのですが、これを読んでしまったらもう新たな殊能将之の文章は読めないのだな、と思うと、読むのが本当にもったいなくて、ゆっくりじわじわと、時間をかけながら読みました。
短編三作は自宅のダンボールから発見されたもので、おそらく習作か、ひょっとすると何らかの理由にボツになっていた短編と思われます。しかし、そうは思えないほどレベルは高く、いずれもホラー、ファンタジー、ミステリィの要素が結実した質の高い作品です。やはりただならぬ才能を感じさせられました。わりときちんとしたオチがついているところからも、著者の律儀な性格が伺えます。
逆にオチをつけずにもっと謎を残してもやもやさせ、さらに話をもっと難解でわけわからんくすれば、読み手がこれは何かの暗喩じゃないかなんて勝手に深読みし始め、そうすると純文学の範疇に入れられ、すばるとか文學界とかに掲載されちゃって、そんでもって芥川賞も夢じゃ無かったんじゃないかな、なんて妄想したりしました。
そして、なんといっても、殊能将之ファンを泣かせるのは、最後の「ハサミ男の秘密の日記」です。
こんなもの、殊能将之ファンしか喜ばないと思いますが、もしそうでない人が読むのならば、できれば殊能将之の長編5冊、少なくとも「ハサミ男」は読んでからにして欲しいと思います。
名探偵・石動戯作が、なぜデビュー作の「ハサミ男」ではなく、二作目の「美濃牛」から登場したのか、長年少し不思議に思っていたのですが、その疑問も解決しました。私は、名探偵の石動戯作や水城優臣が、最後に安永知夏と対決するのを勝手に妄想していました。そんなこと、あり得ないのは分かっていましたが、そんな私にとって夢のような作品も、文字通り儚い夢のまま消え去り、妄想のまま終わってしまいました。
「ハサミ男の秘密の日記」が未完で終わってしまったのも、残念でなりません。
2016年に読んだ本私的第3位
第3位 乾くるみ スリープ (ハルキ文庫)
2015年のベスト5では、遅まきながら乾くるみのデビュー作「Jの神話」を読んで衝撃を受け、第2位にランクさせてもらいました。
実を言うと私、かの有名な「イニシエーション・ラブ」が好きになれなかった口なんで、ちょっと乾くるみは敬遠してたんですけど、あれからほとんどの作品を読んでみました。
それで一番面白かったのがこれ、「スリープ」です。
賛同は得られないかもしれないけれど、乾作品では、もっとも「Jの神話」に近いんじゃないかな、と言ったら「スリープ」に失礼だろうか。どちらもほとんどSF小説だし、主人公は美少女たちだ。もちろん、「J」よりもずっと洗練されている。
果たして生物を生きたまま何年も冷凍保存し、そして生きたまま無事に解凍することは可能なんだろうか? この問いに対する理論武装はさすが理学部数学科出身なだけある。私は充分納得させられた。だから、近未来の現実として、かなりのリアリティを感じながら読めたと思う。ただし、いくら理論が正しくても、技術的に可能かどうかはまた別の問題である。まあそれが、この物語の核心である、ともいえる。これ以上は言えないが……。
SFだけどまるで現実のように思わせる筆力、本格ミステリィに匹敵する伏線とその回収、そして意外な結末、ホラー、サスペンス、ハードボイルドのように目まぐるしく展開するストーリー、おまけに見方によっては純愛を描いたとも言える恋愛小説でもある。よくぞこれだけの要素を贅沢に全部つぎ込んで、こんなおもしろいエンターテイメント小説を書いてくれたもんだ。
なんといっても、主人公の美少女たちがいいね。「羽鳥亜里沙」はもちろんのこと、「鷲尾まりん」もいい。それから、ヒロインのアリサの相手役の「戸松鋭二」って、素粒子物理学の戸塚洋二先生から取ったんだろうか。
乾くるみの小説といえば、さえないオタク男か、さもなきゃ天童太郎みたいな性格にひとつもいいところがない嫌な男とか、そんなんばっかり出てくる印象があるけど、もっとこういう美少女キャラ主人公にしてがんがん書けばいいのに。上手なんだから、きっと売れまくるのになあ、もったいない。
※よく読んだら文中に重大なネタバレを書いてしまっていました。もし未読の方が気づかれましたらゴメンナサイ。まあでも読んでるうちに気づくよな。少なくとも麻耶雄嵩よりは親切。
2016年に読んだ本私的第4位
第4位 森博嗣 キウイγは時計仕掛け KIWI γ IN CLOCKWORK (講談社文庫)
私、森博嗣先生の作品はだいたい読んでいて、小説はもちろんのこと、エッセイやウェブ日記本までほとんど読破しています。なので、だいたい氏の考えていることは想像できる(と自分では思い込んでいる)し、そろそろ最終作品を書き上げて隠遁生活に入る時期が近づいてきた今日この頃、結論めいたものも見えてきたのかなあと感じています。
なので、特にWシリーズなど、近年の作品ははっきりいってあまり面白くない。まあこっちも面白さを期待して読んでいるわけではないので、別に文句はないのです。しかし、この作品は久しぶりに楽しみながら読めました。
シリーズ登場時は学生だった加部谷、雨宮、山吹、海月といったおなじみの面々、本作では社会人となってそれぞれ別々の道へ進み、そして処女作から長きに渡って登場し続ける西之園萌絵、犀川、国枝も、すっかり偉くなってしまいそれぞれ別々の大学で教鞭をとっている。
だからもう、お前ら二度と集まんなよ!
なぜかって? だって、お前らが一同に介したら、絶対に殺人事件が起きんに決まってんじゃん。これ以上凄惨な事件が起きるのは勘弁して欲しいんだよ。だから集まんなって。
ところが集まっちゃうんだな。だって、全国学会の年次総会だもの。いやあ、うまいこと考えましたね、学会があるから集まらざるをえないもの(でも考えたら加部谷と雨宮はちょっと強引な招集だったな)。
で、やっぱり学会開催中に、学会会場で殺人事件が起こる。ところが、学会自体に思いのほどの影響はなく、年次総会はほとんど滞りなく日程を消化していく。殺人事件はすぐそばで起きているのに、多くの学会参加者たちにとって、それはまるで彼岸の出来事のようだ。
そして、読者の私にとっても、殺人事件自体はどこか絵空事のようで(ま、元々絵空事なのだが)、加部谷ちゃんと発表して質疑応答できんかなーとか、山吹が座長なんて大丈夫なんかなーとか、そんなことを興味の的にして楽しみました。
つまり、この作品は、ミステリィの体裁を借りた「学会小説」なんですね。と、私は思いました。
ということで、残りは3つだな。続きは後日。完結できるかなあ。
2016年に読んだ本私的第5位
年間100冊はミステリィを読みたいと思っているのですが、なかなかそうもいかず、昨年も約50冊ほどにとどまってしまいました。しかし、(2015年に読んだ本ベスト5)でせっかく私的ランキングを始めたので、今年度も敢行したいと思います。繰り返しになりますが、新刊の単行本はほとんど読まないし、気長に文庫化を三年待つ、いや、某大型古書店に流れて値崩れするのを待つ、というのがふだんの私です。ですから、今更感満載のしょぼいランキングになるのは目に見えているのですが、そこはなんとかご容赦いただきたくお願い申し上げるしだいです。
第5位 深水黎一郎 テンペスタ 最後の七日間 (幻冬舎文庫)
一昨年、私の必読作家の仲間入りを果たし、「ジークフリートの剣」が堂々の第一位を獲得した深水黎一郎氏です。私にしては珍しく「ミステリー・アリーナ」は文庫化を待たずに買ったし、今年文庫化された3冊もすぐに買って読みました。
この中では、客観的にはやはり「ミステリー・アリーナ」がオススメで、エンターテイメント性に過ぎるほどおもしろいです。「大癋見警部の事件簿」もかなり笑えます。一方、「美人薄命」は著者の(本来の)高い文学性を伺わせる美しい作品。
さて、私が選んだのは「テンペスタ 最後の七日間」、めちゃくちゃおもしろいかと問われればそうでもない、めちゃくちゃ文学性が高いかというとそうでもない、この中では一番中途半端かもしれないこの作品が、なぜか一番印象に残りました。――元々はテンペスタ~天然がぶり寄り娘と正義の七日間~という作品です。著者はなぜか文庫化の際の改題がとても多い。
主人公は江戸時代の処刑場について造詣が深い小学校五年生の少女ミドリ(この設定だけでもリアリティに無理がありますが……)と、伯父の賢一のペアです。私は最初、ミステリィかと思って読み始めたのですが、いつまでたっても事件らしい事件が起きず、変だなあと思いながら読み進めました。処刑場跡など著者お得意の古典的な薀蓄を織り交ぜながら、一週間にわたる伯父と姪の心の交流を描いた、ほのぼのとしたドタバタコメディ、といった趣きです。――そういえば芸術探偵シリーズも伯父(海埜警部補)と甥(神泉寺瞬一郎)の関係ですね。ひょっとすると深水さんは子どもがいないのだろうか?
さてところが、(この先、多少ネタバレになりますが)物語は最後の七日目、突然雰囲気ががらりと変わり、捉えようによってはなんとも後味が悪いとも言える意外な結末を迎え、読者をびっくりさせます。
長編小説では、特にミステリィの場合は、読者を飽きさせずに最後まで引っ張っていくため、途中にいくつかの山場や謎、伏線と思える場面などを綿密な計算のもとに設けるのが普通だと思います。ところがこの作品は、山場らしい山場もなく、すっかりほのぼの小説だと思わせておいて、最後に読者を突き落とす。
めちゃくちゃ面白かったわけでもなく、むしろモヤモヤの残る、どちらかといえば腹立たしい結末に唖然とするとともに、なぜこうした?という疑問しか残らないのですが、それがかえって強く印象に残る結果となりました。
ひょっとすると、このキャラがたったコンビ、今後は小学生名探偵ミドリとワトソン役の伯父として登場し、新たなミステリィ・シリーズとなっていくのではないか? そう思いました(たぶん、ないと思うけど)。
とりあえず本日は第5位だけ。続きは後日。これ、完結できるかな。一年かかったりして。
2015年に読んだ本ベスト5
年間100冊はミステリィを読みたいと思っているのですが、なかなかそうもいかず、昨年は50冊ほどにとどまりました。友人のブログで「今年読んだ本年間ベストテン」みたいなのを見て、オレもやりたい!と思ったのですが、新刊の単行本を読むことはほとんどないし、意地でも気長に文庫化を三年待つ、いや、それどころか、さらに文庫が某大型古書店に流れて値崩れするのを待つ、というのがふだんの私です。そんな私が、たった50冊のなかから10冊選んだところで、今更感満載のしょぼいベストテンになるのは目に見えています。
でもやっぱりやりたいので、遅きに失した感はありますが、2015年度の私的ベストファイブを選んでみました。
第5位 麻耶雄嵩 神様ゲーム (講談社文庫)
推理を間違った探偵が失意のあまり失踪、探偵役が解決を全く解説しない、名探偵より優秀なワトソン役、一度解決した物語を破壊して多重解決、捜査も推理も全部使用人にやらせる探偵など、ミステリィの構造そのものに対する問題提起を続ける孤高の推理小説作家、というのが私の麻耶雄嵩に対するイメージです。
本書は「神」が探偵なので、どんなに意外だろうが、どんなにあり得なかろうが、神が名指しする犯人こそが真犯人であることに疑いを持つことは許されません。それでも巷のネタバレサイトでは、まるでヨブが神と対峙するみたいに、様々な整合性の検討が行われています。しかし、理不尽こそ神の特質ではないでしょうか。また、作品における神はどうあがいても作家なのです。
麻耶雄嵩は2012年以前の作品はすべて読みましたが、寡作な人なので、全部読み切ってしまうのが恐く、新刊の単行本には手を出していません。「さよなら神様」「貴族探偵対女探偵」「化石少女」「あぶない叔父さん」の文庫化を気長に待ちたいと思います。
素晴らしきエコール・ド・パリの画家たち(暁宏之氏に捧ぐ)
新聞を読んでいると、ある展覧会の記事が目に留まりました。
■パスキン展 −生誕130年 エコール・ド・パリの貴公子− (汐留ミュージアム)
ジュール・パスキン(1885-1930)は、エコール・ド・パリといわれる主に1920年代にパリに集った異邦人芸術家たちを代表する画家です。フジタやキスリングを親友にもち、ピカソやシャガールらも活躍した第一次大戦後の「狂乱の時代」に、パリで高い評価を受けて、次々と作品が売れた時代の寵児でした。なかでも、繊細で震えるような輪郭線と、淡くそして真珠のような輝きを放つ柔らかな色合いで描かれた女性や子ども達の作品で人気を博しました。
花束を持つ少女のイメージ図
汐留ミュージアムで3月29日までやってるそうですから、まだ間に合いますよ。ま、そうはいっても、パスキンだかパツキン(金髪)だかって、そんな画家知らねーよっ、という方々も少なくないはずです。何を隠そう、先生だってつい最近読んだ本にたまたまパスキンのことが書いてあったから、それでたまたま記憶に残っていたから、この新聞記事が目に留まったと、ただそれだけの話なんです。
パスキンの代表作は……そうですね、これもついさっき仕入れた知識なんですが、「花束を持つ少女」という作品が有名らしいですよ。なお、右の絵はパスキンとは関係ありません。あくまでもイメージです。美術作品の写真をそのまま載せるのはさすがに気がひけますからね。
ここで先生は、驚いたことがあったのです。これを見てください。
なんとですね、このジュール・パスキンの代表作「花束をもつ少女」は、なんと先生の地元の北海道立近代美術館が所有していたんですね。いやあびっくり、知らなかったなあ。そりゃあそうだよな、だいたいジュール・パスキン自体、つい最近まで知らなかったんだから。ちなみに道立近代美術館は他にも、モディリアーニが描いた「フジタの肖像」、ハイム・スーチンの「祈る男」といった、エコール・ド・パリにおける重要な作品を所蔵しているそうです。いやあ灯台下暗し。
エコール・ド・パリに関してはこんな展覧会も行われているようです。
2015年6月27日(土)〜8月23日(日)北海道立近代美術館
2015年9月20日(日)〜11月23日(月・祝)宇都宮美術館
全国巡回のようだけど、札幌と宇都宮はこれからだから、興味のある方はぜひぜひってかんじです。
さて、展覧会の告知はここまでとして、先生がなんでそんな急に、エコール・ド・パリの画家たちなんかに興味を持ったのか、そのきっかけになった本とはなにか? ぜひとも知りたいでしょう? この先は、そりゃあぜひ知りたいよ、という愛すべき当ブログ読者の方々に向けてお送りします。
幕が上がる
高橋さおり(さおり)―吉岡先生の代わりにリーダーである自分が判断を下さなければならない場で動揺を隠すところ……涙をこらえる百田夏菜子が目に浮かぶ。
橋爪裕子(ユッコ)―玉井詩織:興奮するとかわいい顔に不釣り合いな男言葉になる。女子だけのときはものすごい大食いなところ、さおりを相手役に希望するなど、かなりさおり(百田夏菜子)を慕っているところが玉井詩織に重なる。
西條美紀(ガルル)―高城れに:とてつもなく変なダンスを踊る。進学で忙しい時期に演劇にかける覚悟を問われて泣き出し、ここ泣くところかとさおりにあきれられる。うまくいった芝居を「いい温泉にゆっくりつかった感じ」と変な例えで表現し、他の同意を得られないところ。本番直前にさおりの背中を思いっきりたたいて気合を入れるところ。見事なほどすべて高城れにに重なる。
中西悦子(中西さん)―有安杏果:転校生であるところ、すでに高度なスキルを身につけているところが、途中加入の有安杏果に重なることは重なるが、"長い足で大股で歩く"などの描写から、たぶん容姿はかなり異なると思われる。
ユッコとガルルのほとんど素に見える、ダラダラとしたおしゃべりの芝居。ももクロの、着地点の全く分からないグダグダしたMCと重なる。
ついでだけど、わび助の苗字が桃木!
高橋さおりの一人称で書かれているので、読者の前にはさおりの自身の無さや葛藤が遠慮無く吐露される。このため、読者はあたかも平凡な女子高生がだんだんとリーダーシップを発揮するようになっていく成長の物語であるかのように読む。もちろんそれはまったくそのとおりなのではあるが、演劇部員たちは早くからさおりに絶大な信頼を寄せているし、他校の生徒からも憧れの眼差しで見られる描写があることから、さおりは実は他人が見れば初めから何らかのオーラを放っていたのかもしれない。この点、周りにリーダーシップを見出され、押し出されるようにリーダーとなり、もはや誰もが認める絶対的リーダーであるにもかかわらず、普段は未だにポンコツな百田夏菜子と見事に重なる。
高橋さおりの言葉を借りれば、青春とは、大人になっていく過程の、自分がなんだか分からない、言葉にならないモヤモヤしたもの、である。進路の悩みとか、いじめの問題とか、部活とか、親との軋轢とか、そしてそんな問題を取り入れた ”高校生らしい演劇” は、そんなものは大人の考える ”高校生らしい” であると、高橋さおりは痛烈に批判する。
そして、あえて等身大の高校生が登場しない、銀河鉄道の夜を選ぶ。
国語の先生が相対性理論という名前のバンドがあるそうですね、という場面。もちろんZ女戦争が頭に流れる。
一生懸命な自分、一生懸命やれば親や友だちは拍手してくれるかもしれない、だけど、彼女たちが求めるのは、もっと質の違う拍手だ。
日差しの強い夏、全国大会を見に行った高橋さおりと中西悦子がサンドイッチを食べようと会場のまわりで日陰を探すがなかなか見つからない場面、私はももクロ夏のバカ騒ぎ2014桃神祭で、まったく日陰の見つからない日産スタジアムのまわりを、やまちゃんとヘロヘロになりながらうろついていたときのことを思い出した。
結論として、私は今この原作を先に読んでおいてとても良かったと満足している。読む以前よりはるかに映画が楽しみになった。もしも映画が期待はずれだったらどうしようなどという不安はまったくない。極めて安らかな気持ちで映画の公開を待つのみ、という心境である。
しろくまタイムズスクエア 雪の練習生
皆さんこんにちは。スイーツブログとは何かを真面目に考えているスミルノフ教授です。前回はスイーツブログの名にふさわしいエントリーだったと先生は自負しています。皆さんも太るだのダイエットしたいだの概ねスイーツブログらしいコメントをしてくれました。それでよろしい。しかし、柳月のどらやきの下には、「喜嶋先生の静かな世界」の他にもう一冊、「雪の練習生」が隠れていたことについて、誰も反応してくれなかったのは、先生としてはちょっと寂しい。そこで今日は、もしも「札幌タイムズスクエア」に例えるとしたならば、それは間違いなく「しろくまタイムズスクエア」であろう「雪の練習生」について論じておこうと思います。
だがしかし、先生は書評がすこぶる苦手です。だいいち小学生の頃から読書感想文が大嫌いでした。先生はその本を読んじゃうと、なぜだかその本のことはもう書けなくなってしまうのです。だから宿題とかでどうしても読書感想文を書かなきゃならないときは、その本を読まずに、題名と帯書だけを頼りにもっともらしいことを書きました。たとえば、高木彬光の「邪馬台国の秘密 (1973年)」は歴史書だと思って、「著者は主流である畿内説に異を唱え、推理作家らしいその洞察力で次々と証拠をあげながら九州説へと導いていく様は圧巻であった」などと、さも読んだかのように書いたところ、満点をもらいました。「邪馬台国の秘密」が実は推理小説であり、その後盗作騒ぎになったことを先生が知ったのはずっと後年のことでした。
しかも先生は「雪の練習生」を読んだあと、バカミスを3冊ほど読んでしまっているので、自分がホッキョクグマであった頃の記憶や感覚がすでに消えかかっています。でも、なんとかして今のうちに書き留めておくわ。今書き留めておかないと、もう一生書くチャンスなんてないかもしれないもの。
第一部、祖母の退化論。自伝を書き始めるのはトスカの母だ。だいたいホッキョクグマが自伝を書くという状況をここで受け入れることができなければこの小説はそこで終わりである。そこで終わりにしてもいいのに。もうわかんない奴はみんな置いてけぼりにしちゃえばいいのに。だけど多和田さんにそんな意地悪はできないのである。多和田さんは親切だ。多和田さんの親切に我々は報いなければならない。なぜホッキョクグマが自伝を書くのか? 書くとしたら何語で書くのか? ホッキョクグマ語? だがみんなはトスカの母の母国語はロシア語だという。だけど彼女はドイツ語で書く。母国語ってなに? 母国語じゃないドイツ語で書くとどうなるの? それは多和田さんの永遠のテーマである。
第二部、死の接吻。せっかくホッキョクグマが自伝を書くことを受け入れ、ここまでついてきた読者を多和田さんはいったん突き放す。語り部はホッキョクグマ使いの人間、ウルズラに交代する。どうして人間が伝記を書くのだ、伝記を書くのはホッキョクグマに決まってるだろ、と腹をたてることができれば、あなたがすでにこの小説のとりこになっている証拠である。でもそんな怒りはもちろん無用である。ウルズラはやがてトスカに飲み込まれていく。ウルズラの書くホッキョクグマのトスカの伝記は、ホッキョクグマのトスカが書くウルズラの自伝に昇華していく。見事だ。第二部が、本作最大の見せ場だと思う。
YouTube - Ursela Bottcher opname 1973 Circus Paul Richard
第三部、北極を想う日。読者の多くはトスカの子クヌートが主人公の第三部がお目当てだろう。だが、クヌートと髭の飼育員の愛情物語を期待していたクヌート・ファンはたぶん裏切られる。少なくともクヌート・ファンのひとりであった私は――そしてピース・ファンでもあった私は(参照)、完全に突き放された。クヌート・ファンであること自体が罪深きことではないかと苛まれる。クヌートに苦悩がなければないほど私たちは罪深い。地球温暖化防止のシンボルとなったクヌートの姿は、様々な思惑に政治利用される世界中の少数民族にも重なっていく(例えばシドニー五輪の先住民族とか)。クヌートは安楽死させられるべきだったろうか(参照)。ホッキョクグマは南下し、ヒグマとの交雑が進んでいる。これは私たちが是が非でも阻止すべき現象なのだろうか。
雪に想いを寄せるクヌートの姿で物語は終わる。祖国とはなんだろう。ソ連、西ドイツ、カナダ、東ドイツと渡り歩いた祖母、東ドイツで活躍した母、そしてベルリンで生まれ育ったクヌート、ホッキョクを知らないホッキョクグマたちにとってホッキョクとはなにか。第一部でおせっかいなほど親切だと思った多和田さんは、第三部ではすごく意地悪になって、大きな問を私たちに投げかけて書き終える。
日本語、ドイツ語、ホッキョクグマ語で考える多和田さん、最初から翻訳を意識した日本語でノーベル賞を狙う作家よりも先にノーベル賞をもらえたらいいですね。
次回のスイーツもお楽しみね!
どらやき(柳月) 喜嶋先生の静かな世界
皆さん、こんにちは。毎度おなじみ真面目なスイーツブログをやっておりますスミルノフ教授です、なんて書き出しもそろそろ飽きてきちゃったなあ。
本日はこの写真の商品についてのエントリーですけど……おや、読者の方から手紙が届いているようです。
スミルノフ先生、いつもスイーツブログを楽しく読ませていただいてます。僕はうだつの上がらない町医者をやっている者です。でも、これでも昔は先生のような立派な研究者を目指していたことがあるんですよ。
最近、先生がおすすめの柳月のどらやきを食べながら、「喜嶋先生の静かな世界」という本を読みました。すると、昔の研究生活の思い出がまざまざとよみがえってきてしまい、どうしても誰かに話したくて我慢できなくなりました。そこで、敬愛するスミルノフ先生ならば聞いていただけるのではないかと思い、筆をとったしだいです。
僕が初めて研究というものに携わったのは、アメリカのとある臨床医学教室です。アメリカのボスは、ある特殊なin vivoの実験系を確立した人でした。彼独特の個性的な実験系なので、少し条件を変えたり、使う薬物をとっかえひっかえするだけで、オートマチックにいくつも論文ができあがる仕掛けでした。僕はそのうちのいくつかを、言われるがままにこなせばいいだけでした。そのときは研究ってそういうものだと思ってました。
僕は英語が苦手だったので、研究のプレゼンテーションに関してはボスの厳しい特訓をうけました。アメリカ人というのはほんとに大袈裟で気取ったやつらばかりで、ときには後ろ手を組んでステージの上を行ったり来たり歩き回りながら、大きな手振り身振りで自分がいかにすごいことをしているかアピールします。みんながスティーブ・ジョブズみたいなものです。僕も聴衆の注意をひく決め台詞や、言葉の一言一句に対応する目線の位置、表情、手振り身振りまで実に細かく指導されました。もちろん小学生のころからそういうプレゼンテーションの訓練を受けている彼らには敵うはずもありませんでしたけれど。
そうやって積極的に自分をアピールし、莫大な研究費をゲットし、人件費も惜しまず投資し、力づくでたくさん成果をあげ、そしてまた研究費をゲットする、みんながみんなそうとはいいませんが、僕が見聞きした限りではそれがアメリカの研究のやり方という印象でした。僕はボスのおかげで、アメリカのわりと有名な雑誌にいくつかの論文を載せることができました。
そのとき身につけた研究方法や発表方法は、帰国してからずいぶん役には立ちました。普通の臨床医学の学会では、もう恐れるものは何もなくなっていました。でもそんなことが大事なのだろうか。大事なのは大事なんだろうけれど、どこかに本質的なことを忘れて置いてきてしまっている。そんな後ろめたさがずっとつきまといました。
もちろん、そんなことはみんな気づいているのでしょう。気づいていながら、うまくやっていく、それが大人というものです。もしも僕の先輩たちがこの文章を読んだら、あいつはあいかわらず子どもだと笑い飛ばすことでしょう。
だけど、「喜嶋先生の静かな世界」の中の喜嶋先生の言葉に、僕はやっぱりそうだったのかと感動を抑えずにいられませんでした。語り部である橋場くんが学会発表の練習をしたあと、原稿の棒読みになってしまったことを反省するシーンがあるのですが、喜嶋先生は「棒読みで構わない、言葉は、内容がすべてであり、あがっていようが、読み間違えようが、論文の価値にはなんら関係ない」と言い切ったのです。
「喜嶋先生の静かな世界」には到底及びませんが、僕もそれにやや近いシチュエーションに置かれたことがあります。僕はアメリカでの研究生活を終えたあと、帰国して普通に臨床医をしていました。そのまま普通の臨床医になるんだろうと思いながらぼうっとしていたとき、高校の先輩でもあったT教授から生理学教室に来ないかと誘われました。そこで「喜嶋先生の静かな世界」のような、夢のような数年間を過ごしました。臨床医学の学会では味わえない、純粋な学問を追求する人々の姿がそこにはありました。
橋場くんの言うように、これはすごく重要なことなのですが、自分のやっている研究がいま世界でどのへんに位置しているのか、そして自分は何を目指しいったい何合目あたりまで登ってきているのか、そういう自分の立ち位置が分かっているということは、研究者にとって最も大切なことのひとつです。僕の垣間見た生理学の世界では、それが分かっていない人は学会ですぐに見抜かれて、たちまちボコボコにされていました。ひどいときには、座長と会場の人々だけで白熱した議論が起こり、発表者が発言しようとすると「君は何も分かっていないから黙っていなさい」と怒られて口を挟むことが許されなかったことさえありました。
大勢が議論に参加していても、ほんとうに理解して議論しているのは数人だけということもありました。もちろんそんなことは僕には分かりません。僕には他の人全員がとても頭の良い人に見えました。そばにいたT教授が、今のをほんとうに理解したのは彼と彼だけだよ、と教えてくれたので、そうなんだと思っただけです。だけど、議論を聞いていればその人がどこまで理解できているのかがさらけ出されてしまうということは何となく分かるようになりました。
僕も有名な研究者たちを前に発表することが何度かありました。臨床医学の学会で発表するときとは比べ物にならないぐらい緊張しました。アメリカでもこんなに緊張したことはありませんでした。あるイオンチャネルの発見者として世界的に有名なN先生に質問されたことがありました。それは、はたから見ればごく普通の単純な質問でしたが、僕はその質問に愕然としました。僕はそのときすでに、その発表内容の次の段階である、僕の研究テーマの核心に迫る実験を進めていたのですが、まだそのことは誰にも内緒でした。でもN先生の質問は、まさにその核心に迫る実験の結果を問う質問だったのです。僕はN先生がすべてを理解していることに驚き、その場で打ち震えました。ごくごく一般的な答えを装って、けれどもすべてを理解してしまったN先生だけには分かるように答えたつもりでしたが、その答えを聞いてN先生は「ほほう」と感心し、興味を示されたようでした。あとでT教授が寄ってきて、「ね、N先生ってすごいだろ」とおっしゃいました。
常日頃T教授は、「あせって中途半端な論文を書いてはいけない、いつまで『武士は食わねど高楊枝』でいられるかだ」とおっしゃっていました。ちょうどその頃、生命科学の分野では、ひとつの実験系だけで論文を書いてもレベルの高い雑誌に載せることは難しくなっていました。ひとつの仮説を証明するためには、ひとつの生理学的手法だけでは不十分で、薬理学、生化学、遺伝子工学など、様々な手法を用いて多角的にアプローチしないと認められないという潮流が来ていました。
だから僕は論文を完成させるのにずいぶん時間がかかりました。そして論文自体もかなり枚数の多いものになってしまいました。完成稿をある雑誌に投稿しても、門前払いで不採用になったり、審査員から無理難題をつきつけられたりし、そのつど書き直してまた投稿する、といったことを繰り返しました。
結果的にその論文は欧州の中堅雑誌に載りました。でも臨床医学の諸先輩方にはなかなか理解を得られませんでした。曰く、そんな長い論文をひとつ書くよりもいくつかに分けて小出しにした方が論文数を稼げるのに、薬の種類を変えれば同じような論文が何種類も書けるのに、だいたいお前のやった内容はいったい臨床の何の役に立つのか、あいつは基礎医学にいって趣味のようなことをしている、あいつは基礎医学にいって駄目になってしまった、などです。でも僕は個人的には自分の仕事に満足していました。
僕はそのまま生理学の研究者になることも考えましたが、結局は臨床医学の現場に戻りました。基礎医学の世界で食べていくには実績が足りないと思ったからです。もっと若手だったなら、実績が無くてもすばらしいアイデアさえあれば、国や財団などが研究費を出してくれる可能性があります。しかし、四十歳を超えるとそれ相当の実績がなければ自分の研究を推し進めていくことが困難になります。ですから、もしその道で生きていく覚悟のある若手研究者の方がいれば、僕にできる唯一のアドバイスは、若いうちにどんどんアイデアを出し、どんどん補助金や助成金を申請し、どんどん実験をして論文を書いて、そうやって若いうちにどんどん実績を積み上げてくださいということです。
でも実績が足りないなんていうのはただの言い訳です。僕がやめたほんとうの理由は、実力がないことを思い知らされ自覚したこと、もともと飽きっぽくて根性がないこと、もっと楽に生きたかったこと、それだけのことなのです。
僕は臨床医学の分野に戻ってから、ある大学で助教授になりました。でも結局、助教授として栄転した喜嶋先生が四十七歳で大学をやめたように、僕も同じような年齢で大学をやめました。しかし、やめた理由は喜嶋先生とは正反対です。僕がやめたのは、喜嶋先生のように、自分の研究のために、自分の崇高で静かな世界を守るために、ではありません。やっぱり、僕は白日夢のような理想を抱くだけの人間で、それを実現させる実力も根性も合わせ持たない、ただ楽な方に逃げてしまう人間に過ぎなかったというだけのことです。そうして「喜嶋先生の静かな世界」を読みながら、今日もまたいつもの白日夢の世界に逃避し安住している、何の役にも立たない人間なのです。
最後に、長々と駄文を連ね、先生の貴重なお時間をとらせましたことをお詫び申し上げます。先生の益々のご健勝を心から願っておリます。
先生もちょっと読んでみました。「喜嶋先生の静かな世界」は、おそらくまどろみ消去に収録されている「キシマ先生の静かな生活」の長編化ではないかと思われます。前半に橋場くん、喜嶋先生、櫻居さんの三人でスナックに飲みに行くエピソードが挿入されたので、橋場くんが喜嶋先生の家に行って酒が出てきてびっくりするシーンが(これは大事なシーンですけど)ちょっと不自然になったかな、と思いました。先生の誤読でしょうか。それにしても、喜嶋先生と沢村さんはどうなったのか、森博嗣の読者諸氏におかれましては、これを書かずに作家をやめられたら怒りますよね。関係ないけど、キシマ先生とカタカナで書くと、先生は何となく、野矢茂樹の無限論の教室に出てくるタジマ先生を思い出しました。タジマ先生もきっと静かな世界の住人です。あ、次回のスイーツもお楽しみね!
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